希野正幸のインフォブログ

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私の意識改革体験

 私が本格的に自己意識について探究を始めたのは1984年にクリシュナムルティの『英知の探求』を読んでからです。そこには『自分が感じる様を頭で考える事なくありのままを観察しなさい』と書かれていました。

 

 実践してみて最初に感じたのは自分は外界の情報を常に欲しがっていて、それにいちいち反応してああでもないこうでもないと解釈しているという事です。ありのままを観察できない自分に気づきました。

 

 自分のありのままを見つめる訓練をしているとだんだん自分が外界の刺激(五感から受け取る情報)に反応して何らかの解釈をしてそれに対して怒りとか感動とか色々な感情が生じる様を観察できる時間がだんだん増えていきました。結果を求めると焦ってしまって観察が上手くいかないので、結果を求めず淡々とやるのが良いようです。

 

 以前は私にも人より自分が先んじていたいという闘争心があって、車の運転をしている時、他の車に割り込まれると無性に腹が立ってこの怒りを制御することが出来ませんでした。2006年の6月のことだったと思います。他の車に割り込まれて腹が立った時、ふと私であることを止めて割り込んだあの人になってみようと思ったのです。すると怒りが消えて快感に変わったのです。

 

 『私』という自己意識を肉体から切り離すと怒りを消せるかも知れないというアイデアが浮かび、自分の外側から自分の心の動きを観察するようにしました。すると、自己意識の後ろから、自己保存能が怒り、快感、恐怖といった情動を使って自己意識を支配していて、自己意識がそれに気づいていない様子がはっきりと見て取れたのです。すると自己意識が情動から完全に切り離されました。『私』は怒ることも、喜ぶことも、恐怖することもなくなりました。心に波風が立つことがなくなりました。

 

 自己意識が無意識下で自己保存能に支配されている状態では、自己意識は五感からの情報を渇望し、五感からの情報にいちいち反応します。従って、自己意識は常に揺れ動いて鎮まる事がありません。また、自己意識は五感からの情報をありのままに受け取る事が出来ず、情報を自己保存能に都合が良いように解釈します。この解釈の時は、五感からの情報と過去の経験を合成します。

 

 一方、自己意識が自己保存能の支配から脱した状態では、自己意識は五感からの情報にいちいち反応しません。五感からの情報は入ってきますが、自己意識は明鏡止水の状態で動揺しません。自己意識は、苦、恐怖、怒り、快感、感動、喜悦などの情動を起こす事がなくなります。苦も喜も楽もない状態を仏教の世界では第四禅というようです。

 

 苦しみ、恐怖、怒り、焦り、功名心、闘争心、欲望といったものが無くなるのは確かに良い事だと思います。世界中の人々が第四禅の境地に達すれば戦争も争いも無くなるでしょう。でも、いい事ばかりではありません。欲が無いと世俗の仕事が出来ないのですね。私の仕事のメインは論文を書く事なのですが、ルーチンワーク機械的に出来るからいいのですが、論文を書くのは功名心というモチベーションが無いと困難です。余りにも論文が書けないので、第四禅に達した状態を鬱病になったと勘違いしました。

 

 第四禅に達した状態に精神的にも肉体的にも慣れるのに2016年の春までかかりました。かれこれ10年かかったわけです。好きな音楽を聴いても全く感動しません。食事をしてもまるで美味しいと感じません。気持ちは暗くはないのですが、燃え上がるようなものがまるでありません。

 

 先ほど、第四禅の話をしましたが、仏教では解脱や涅槃に至るまでにたどる精神状態としていくつかの段階があると説明しています。色界(物質・肉体レベル)における精神状態として、第一禅、第二禅、第三禅、第四禅を挙げています。尋、伺、喜、楽という精神現象が全てある状態が第一禅、喜、楽のみがある状態が第二禅、楽のみがある状態が第三禅、尋、伺、喜、楽の全てがなくなった状態が第四禅です。

 

 動物は自己保存能に支配されています。自己保存のためには、外界の危険を察知することが死活問題なので、動物は五感の情報を渇望する性質があります。尋、伺は五感の情報を処理するシステムで、尋は五感の情報の無意識的な処理です。我々はボールが自分の方に飛んで来たら無意識に避けます。これが尋です。伺は意識的な五感情報の処理です。動物は危険に対処するために経験から学びます。この時働くシステムが伺です。

 

 喜は死を逃れるための何かを得た時にそれを学習するために必要な反応で、脳内にドパミンやエンドルフィンといった化学物質が分泌される事により生じます。いわゆる快感です。楽も同様な反応で脳内にセロトニンガンマアミノ酪酸が分泌される事により生じます。いわゆる安心感です。

 

 自己保存能とは永遠に生きていたいという欲望です。永遠に生きたいわけですから、自己保存能は死を恐怖するように、死につながる事象を苦と感じるようになっています。仏教は一言で言うと四聖諦(苦、苦の生起、苦の消滅、苦の消滅に至る方法)を理解して、苦から脱する手法です。尋、伺、喜、楽も自己保存能に由来する現象ですから、自己保存能から離れ、苦を滅するためにはこれらを一つ一つ観察してその現象の何たるかを把握し、消していくのです。気付けば自然と消えます。

 

 脊椎動物の内、最も原始的な魚類の脳は、大脳新皮質がほとんどありません。この進化段階で既にある部位は、脳幹、小脳、大脳辺縁系です。脳幹は血管の収縮・弛緩、心拍の調節など生命維持活動を担います。大脳辺縁系は、様々な神経伝達物質の分泌を調節する事により、快感、怒り、恐怖などの情動を生じさせ、外敵からの退避や摂食行動など生命個体の自己保存に必要な行動を促します。

 

 脊椎動物の進化に伴って大脳新皮質が発達します。大脳新皮質の内、前頭前野はマカクザル(ニホンザルやその近縁種)や類人猿で特に発達し、人間では際立って発達しています。この前頭前野の代表的機能が『これは私である』と認識する自己意識です。マカクザル、類人猿、人間の自己意識は自己と他者を区別し、同一グループの構成員を思い遣る事が出来ます。思いを肉体から切り離して相手に派遣し、相手の気持ちになる事が出来るのです。

 

 人間は更に、肉体から離した自己意識で、自分の情動の働く様を観察する事が出来ます。瞑想する動物は人間だけです。脳幹と大脳辺縁系を活動の場とする自己保存能は、肉体に強く依存した内から外への視点しか理解できません。前頭前野を基盤とする自己意識が内から外を見る限り、自己保存能は無意識下で自己意識を支配出来ます。しかし、自己意識が外から内を見る時、自己保存能はこの視線を理解出来ません。自己意識がこの視線を安定的に確立した時、自己保存能は自己意識の支配下に入ります。この時、自己意識が快感や恐怖といった情動に振り回されることはなくなります。煩悩が消える瞬間です。

 

 お釈迦さまは釈迦族の王子として生まれ、何不自由無い贅沢三昧の暮らしをしていましたが、やがて、そのような暮らしに虚しさを感じて出家したといいます。お釈迦さまが贅沢三昧の暮らしをしていたということはとても意味があることだと思います。満足感を味わう経験をしないと満足感というものは長続きしないものだと理解できません。長続きしない満足感を無理して維持しようとするところに苦が生じることが見えません。

 

 お釈迦さまの教えは苦が見えた人のための教えであって、満足を求める人のものではありません。人に満足感を与える宗教は他にいくらでもあります。何かに打ち込んで満足感を味わうことは健全だし大事なことだと思います。何かに執着して満足して卒業して次の執着を探す・・・。人生この繰り返しです。卒業時期を見過ごさないためには、自分の心の動きを絶えず観察するテクニックを身につける必要があります。私がお勧めしたいのは、このテクニックを身につけることだけです。