希野正幸のインフォブログ

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Qの逮捕者リストに名前が挙がっていたIAEAの天野之弥事務局長が22日に死去!〜 対敵防諜活動特別部隊が動いたか!?

画像の出典: photoAC
 

竹下雅敏氏からの情報です。

 昨日のフルフォード情報によれば、カバール連中を倒す道が、ジョージ・ブッシュ・シニアとその妻バーバラの処刑によって開くようになったとのことでした。記事の中では、“NSAと【米】軍とロシアに支援された…対敵防諜活動特別部隊が…[悪魔主義の]シオニスト寄生虫どもを一掃”するとありました。
 この対敵防諜活動特別部隊とQグループとが、無関係とはとても思えません。この特別部隊は、“究極の不利益をお見舞いする”部隊だということで、翻訳者のYutikaさんは、「多分、敵を暗殺するということ」だとしていますが、そう考えるのが自然でしょう。
 さて、国際原子力機関IAEA)の天野之弥事務局長が、22日に死去したとのことです。箱コネマンさんの7月17日のツイートによると、天野事務局長は、Qの逮捕者リストに名前が挙がっており、辞意を表明していたようです。そして、22日に死去しています。こうなると、これは上記の特殊部隊が動いたと考えた方が自然なように思います。
 ツイートをクリックしていただくと、逮捕者リストに名前が出ている8名の名前と顔写真が出てきます。ありゃ、あべぴょんいますね…。
(竹下雅敏)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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核不拡散と核軍縮 天野之弥IAEA事務局長が逝去
転載元)

 

7月22日、国際原子力機関IAEA)の天野之弥事務局長が逝去した。享年72歳だった。スプートニク日本は自己献身的なハイクラスの外交官であった天野氏を偲び、故人の事実を拾い集めた。

「(私は)核兵器の拡散の反対することを決意しました。なぜなら私は広島と長崎を経験した国の出身者だからです。」(2009年7月2日)

1) 天野氏が受けたのは正真正銘の国際教育

後にIAEA事務局長となる天野さんは戦後間もない1947年5月9日、神奈川県湯河原町で産声を上げた。東京大学法学部を卒業後、フランス留学で仏語を習得した。1972年、外務省に入省すると、ベルギー、フランス、ラオス、スイス、米国へ赴任した。英語、仏語に堪能だった。

2) 地球の安全のために実に多くを成し遂げた

天野氏は核調査を行う様々な会議専門家会議で積極的に活動するほか、数か所の大学で教鞭をとるなど、啓蒙活動にも従事し、1995年に核拡散防止条約の無期限延長、1996年には包括的核実験の両方の調印に同席している。

3) IAEA初のアジア出身事務局長

天野氏はIAEA始まって以来の初のアジア太平洋地域出身の事務局長となった。就任は2009年。選出に必要な3分の2の票数を集め、前任のエジプトのエルバラダイ氏に代わって事務局長の座に就いた。天野氏までの歴代のIAEA事務局長の出身国は米国、スウェーデンが2回、エジプトだった。

4) 執念でチェルノブイリ3号機を閉鎖

天野氏は2000年から2001年のG7核の安全保障グループの議長を務めた時期に、チェルノブイリ原発第3号基を閉鎖するイニシアチブを推し進め、実現させた。3号基は1986年の事故以来、14年間稼働し続けていた。

(1、2号基は一連の事故や1991年と1996年に放射能漏れを起こしたことから、1996年後、学界の圧力で閉鎖に追い込まれていた。

5) 福島原発事故後も「世界の原発は増え続ける」

天野氏は2011年の福島第1原発をきわめて深刻な事故と発言した。事故直後、当時の首相で反原発菅直人氏と会談した後で記者団の質問に、地球温暖化対策もあって世界の原発は「これからも増え続ける」と発言した。原発の安全性強化に尽力してきたIAEAは福島を視察し、事故の教訓をまとめて、安全対策に乗り出した。