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闇の勢力が画策する第三次世界大戦/ハルマゲドン トリエント公会議に見るユダヤ教の影響

闇の勢力が画策する第三次世界大戦/ハルマゲドン トリエント公会議に見るユダヤ教の影響

 

 

 ローマ・カトリックの堕落を座視できなかったドイツの修道士マルティン・ルターローマ・カトリックの堕落を糾弾し、ローマ・カトリックはルターの主張を受け入れることなくルターを破門しました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC

 

 これがプロテスタントの始まりです。

 

 このようなプロテスタント運動に危機感を感じたローマ・カトリックは対抗宗教改革の必要性を感じ、この流れを受けて急速に勢力を伸ばしてきたのがイエズス会でした。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%BA%E3%82%B9%E4%BC%9A

 

 イエズス会が実はユダヤ教の強い影響を受けていたことは前回の連載記事のとおりです。

 

 このような対抗宗教改革イエズス会勃興の流れの中で開催されたのがトリエント公会議です。

https://blog.goo.ne.jp/sspx/c/dc414c8831e15abb6618d96f88b1e307

 

 上記リンクより一部を抜粋して示します。

 

160l(844)1条。新約の諸秘跡の全部が、私たちの主イエズス・キリストによって制定されたものでないとか、または洗礼 堅信、聖体、告解、終油、叙階、婚姻の七つより多いとか少ないとか、またはこの七つは本当の意味での秘跡でないと言う者は排斥される。

 

1604(847)4条。新約の秘跡は救いのために必要ではなく、むしろ余分なものであり、秘跡なしに、または秘跡を受ける望みなしにでも(すべての秘跡は一人一人に必要ではないが)、信仰だけで天主から義化の恩恵を受けることができると言う者は排斥される。

 

1608(851)8条。新約の秘跡を通して事効的に恩恵が与えられるのではなく、恩恵を受けるためには天主の約束に対する信仰だけで十分であると言う者は排斥される。

 

1613(856)13条。秘跡を荘厳に授ける時に、カトリック教会によって認められている儀式を軽んじ、または役務者がそれを勝手に省略し、または、教会の牧者は誰でも、それを他の新しい儀式に変えることができると言う者は排斥される。

 

1616(859)3条。すべての教会の母であり教師であるローマ教会には、洗礼の秘跡についての真の教えはないと言う者は排斥される。

 

1618(861)5条。洗礼を受けるか受けないかは自由である、すなわち、洗礼は救いのために必要ではないと言う者は排斥される(DzS1524参照)。

 

1630(873)3条。聖なる堅信の通常の授与者は司教だけではなく、一般の単なる司祭もこれを授けることができると言う者は排斥される。 

 

 ご覧のように”排斥される”のオンパレードです。赦す、受け入れるという感覚がまるでありません。そこに愛を感じることができません。

 

 そして、1604と1608はルターの信仰のみによって救われるという主張に対する完全否定です。プロテスタントへの強い拒否が露わになっています。

 

 そこには、ローマ・カトリック教会が与える秘蹟によって人々が救われることが強調されており、精霊との内的繋がりによる救いは記されていません。

 

 

 

 この”排斥される”という拒絶の言葉は、旧約聖書ヤハウェユダヤの民に与えた律法にも色濃く表れています。

https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%93%E8%A8%98(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)

 

 上記リンクのレビ記第26章には次のように書かれています。

 

1 あなたがたは自分のために、偶像を造ってはならない。また刻んだ像も石の柱も立ててはならない。またあなたがたの地に石像を立てて、それを拝んではならない。わたしはあなたがたの神、主だからである。

 

2 あなたがたはわたしの安息日を守り、またわたしの聖所を敬わなければならない。わたしは主である。

 

3 もしあなたがたがわたしの定めに歩み、わたしの戒めを守って、これを行うならば、

 

4 わたしはその季節季節に、雨をあなたがたに与えるであろう。地は産物を出し、畑の木々は実を結ぶであろう。

 

14 しかし、あなたがたがもしわたしに聞き従わず、またこのすべての戒めを守らず、

 

15 わたしの定めを軽んじ、心にわたしのおきてを忌みきらって、わたしのすべての戒めを守らず、わたしの契約を破るならば、

 

16 わたしはあなたがたにこのようにするであろう。すなわち、あなたがたの上に恐怖を臨ませ、肺病と熱病をもって、あなたがたの目を見えなくし、命をやせ衰えさせるであろう。あなたがたが種をまいてもむだである。敵がそれを食べるであろう。

 

 そこには従う者にのみ恩恵を与え、逆らう者には容赦のない懲罰を与える暴虐の主君としてのヤハウェの本性が現れています。

 

 トリエント公会議旧約聖書も、恐怖をもって服従を強要し、従わない者は容赦なく捨て去って顧みない点で共通しています。 

 

 アセンションマスター、ロード・サナンダはかつて地球上でイエス・キリストとして活動されました。

 

 この方が残した言葉はトリエント公会議旧約聖書の言葉とは対照をなしています。

https://www.inner-wish.com/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%A4%89%E5%AE%B9%E3%81%AE%E9%81%93/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89/

 

 このリンクからいくつか引用してみます。

 

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 マタイ11章28-30節

 

わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。

その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻ってくるのです。

ヨハネ14章15-21

 

だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすればそのとおりになる。 マルコによる福音書11章22-24節

 

神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」 ルカ17章20-21節

 

 

 

    そこには、精霊との内なる繋がりによる救いが述べられています。個人個人の信仰の大切さが述べられています。排斥ではなく愛による赦しと受け入れがあります。

 

 

 

 恐怖による自由意志の蹂躙、服従の強要、従わない者の排斥はどこまでも二元的です。

 

 一方、無条件の愛はお互いの繋がりを、ハイアーセルフとの繋がりを、ワンネスをもたらします。

 

 これからの乱世において、二元的か?ワンネス的か?で物事を判断していく必要がますます求められます。

 

 

 

 最後に、ロード・サナンダが地球でイエス・キリストとして活動されていた時に私たちのために遺していった私の大好きな喩え話をご紹介して本日の記事を終わりたいと思います。

 

 それはルカによる福音書の第10章25節から37節に記されています。

https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B8(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)

 

 上記リンクより引用します。

 

10:25

するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。

 

10:26

彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。

 

10:27

彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。

 

10:28

彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。

 

10:29

すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。

 

10:30

エスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。

 

10:31

するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。

 

10:32

同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。

 

10:33

ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、

 

10:34

近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。

 

10:35

翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。

 

10:36

この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。

 

10:37

彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。

 

 

 

 この喩えの真意を理解するには、ユダヤ人とサマリア人が当時どのような関係にあったかを知る必要があります。

 

 以下のリンクにそのことが解説されています。

https://www.gotquestions.org/Japanese/Japanese-samaritans.html

 

 サマリア人ユダヤ人から見て、ひどい邪教を信じている忌むべき集団であり、彼らとの関係を絶っていました。

 

 ユダヤ人とサマリア人は深刻な対立状態にあったのです。人種差別状態にあったのです。

 

 このようにユダヤ人から忌み嫌われていたサマリア人ユダヤ人が強盗に襲われてけがをしていたのをかわいそうに思って手当してあげたこの行為こそ隣人愛だとイエスは言ったのです。

 

 物質次元で自分がどのような人種でどのような集団に属しているかどうかはイエスにとってはどうでもよいことでした。

 

 そのような物質的差異を超えて愛を実践することこそ隣人愛だと示すことにより、律法で制限された、物質的差異に捕らわれたユダヤ人の二元的愛を超える真の愛を示して見せたのです。

 

 

 

 地球で繰り広げられる地球解放のための戦いはソースのエネルギーと初期異常エネルギーとの戦いなのです。

 

 初期異常エネルギーをこの宇宙から消去するための戦いです。

 

 地球上にはこの初期異常エネルギーの支配を受けて悪事をなす人々がいます。

 

 宇宙人にもこの初期異常エネルギーの支配を受けて悪事をなす人々がいます。

 

 かく言う私たちも多かれ少なかれ、初期異常エネルギーの支配を受けています。

 

 私たちが滅ぼす必要があるのは、初期異常エネルギーであって、それに支配された人々ではないのです。

 

 為されるべきことは初期異常エネルギーに取り憑かれた宇宙人やユダヤ教徒を滅ぼすのではなく、初期異常エネルギーの根源たる第一アルコーン、ヤルダバオートとその分身を滅ぼすことなのです。

 

 キメラやアルコンとよばれる異星人は恐らく、第一アルコーンの分身なのでしょう。

 

 このエネルギーの戦いにおいて、私たちに求められるのは、憎しみや怒りや不安のような初期異常エネルギーに親和的なエネルギーの発散をいかに私たちからなくし、平安、喜び、奉仕、愛といったソースに親和的なポジティブエネルギーを安定的に私たちから発生し続けることができるかなのです。