希野正幸のインフォブログ

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「菱」の系譜

匿名党記事によく出て来る小笠原氏、武田氏ですが、何故、何度も登場するのかよく判らないので、今回、この家系を洞察することにした。

■守護小笠原氏の末裔
http://tokumei10.blogspot.jp/2016/12/blog-post_434.html

■矢志田信玄と武田信玄田布施システム
http://tokumei10.blogspot.jp/2014/10/blog-post_263.html

まぁ、オイラも甲斐武田氏の血流を汲む(母親が武田氏末裔)ので、チョッと気になる話ではある。

まず最初に、小笠原氏は三階菱の家紋を持つ「信濃源氏」で加賀美氏流。信濃守護・小笠原氏は武田氏と同祖。戦国時代には小笠原氏宗家は武田氏に所領を奪われて没落するが、安土桃山時代に再興し、江戸時代には譜代大名となっている。

三階菱
(三階菱)

国宝天守を持つ松本城は松本藩主・小笠原氏の居城ですね。

源氏

一方、武田氏は源氏の東国進出の一環として甲斐国に土着した清和源氏河内源氏系一門ですが、河内源氏3代目の源義家八幡太郎義家)の弟である源義光新羅三郎義光)を祖とするのが甲斐源氏

義光の子を祖とする佐竹氏常陸源氏)や平賀氏信濃源氏)と武田氏(甲斐源氏)と同族。また加賀美系統の小笠原氏・三好氏・南部氏まで含むのが新羅三郎を祖とする甲斐源氏の系列である。

河内新羅源氏

平安末期、平清盛を中心とする平氏政権に対する反乱治承・寿永の乱平氏政が崩壊して源頼朝を中心とした坂東平氏鎌倉幕府が出来るが、その時の軍功で源氏分家にも領地が与えられ、甲斐源氏常陸源氏信濃源氏、加賀美遠光を祖とする南部氏や小笠原氏などの庶流も大名化していった。

甲斐国は皇室領や摂関家が数多く分布しており、甲斐源氏は荘園の領有関係を通じて中央政界とも関係を保っていた。甲斐源氏嫡流は逸見氏と武田氏が争い、逸見氏が嫡流であった時期もあるが、当初から武田の勢力は強く、鎌倉、室町と甲斐守護を保持することによって、武田氏が嫡流としての地位を確立。この武田氏からは板垣氏、甘利氏はじめ安田氏、二宮氏、曽根氏、浅利氏、八代氏、奈古氏、加賀美氏流の秋山氏などがあり、多数の庶家を輩出している。

また、庶流となる加賀美氏流小笠原氏からは伴野氏、三好氏、三村氏、大井氏、長坂氏、長船氏などが出ている。南部氏には後胤は河西氏や奥氏、仙洞田氏などがある。甲斐源氏の一族として、南北朝期に陸奥国へ移住した南部氏や出羽へ移住した浅利氏、始祖武田信広が若狭武田氏の後裔を称する蝦夷の蠣崎氏(松前氏)、土佐の香宗我部氏らの一族がいる。また、近世期には甲斐国主となった柳沢氏が甲斐源氏・武田氏の後裔を称している。

この加賀美系の流れを汲む南部氏の庶家・南部久慈氏の一族で大浦光信を祖とするのが津軽大浦家

これが津軽ですが、ここは東北の姫さまの実家でもある。元々は岩手県東北部の久慈から津軽西浜種里に十三安藤氏残党の反抗対処(1491年)の為に津軽に移封された家系。
※「三戸南部家」の南部守行の七男の久慈則信の孫が大浦光信

南部氏

一戸、三戸、四戸、八戸、九戸までいますね。まるで一尾~九尾の尾獣のようです(爆)。
※尾獣・・・一尾「守鶴」、二尾「又旅」、三尾「磯撫」、四尾「孫悟空」、五尾「穆王」、六尾「犀犬」、七尾「重明」、八尾「牛鬼」、九尾「九喇嘛」=九尾妖狐

しかし、一戸~九戸氏の祖である南部光行陸奥国に下向していない可能性が研究者から指摘されており、実際、九戸氏(くのへし)は九戸神社伝「小笠原系図」(現存せず)によると、結城親朝の配下の総大将小笠原政康の5代の孫小笠原右近将監政実が九戸氏の始祖だと伝えられている。

つまり、小笠原氏が本当の津軽氏の祖だったということになる。まぁ、南部氏も小笠原氏も同族であるので、そう大した違いはないのですが、、、、

さて、この小笠原氏の傍流に三好氏がいます。

鎌倉時代には、承久の乱(1221年 後鳥羽上皇vs北条義時 日本史上初の朝廷と武家政権間の武力衝突 朝廷側敗北で後鳥羽上皇隠岐配流)後、阿波守護を命じられたのが阿波小笠原氏の始まり、信濃小笠原家の分家ですが南朝側に属した。

その後、再び北朝優勢の世となり、室町時代に新たな阿波守護となった細川氏守護代として仕えることになった。この阿波小笠原氏の末裔子孫が「三階菱に五つ釘抜」の三好氏ですが、戦国時代に細川氏に対して下剋上を起こし、阿波をはじめとする四国東部のみならず畿内一円に大勢力を有して三好政権を築いた。

三階菱に五つ釘抜
(三階菱に五つ釘抜)

初期の天下人であり、「日本の副王」とも称された三好長慶がその人ですね。

その後、三好氏は四国全土を支配しつつあった長宗我部氏に取って代わられ、秀吉により「十河氏」という新しい家名を与えられ「三好氏」の名は封印されています。

この戦国武将・三好長慶の子孫から買い取った曜変天目茶碗が「なんでも鑑定団」で2500万円と鑑定されて「新たな曜変天目出現か!」と一時期話題になり、放送直後には贋作の話も出ていましたが、最近、中国の陶芸家・李欣紅(61)が「私が作ったもので間違いないです。およそ1400円で販売していました。」と激白するインタビューが放送されて、この問題はますます混迷の度が深まってきている。

確かにAliexpressで似たようなものが1400円程度で売っていますね(爆)。

天目茶碗01

う~む、中華腕時計、中華イヤホン、中華万年筆...から為るオイラのハイパーコストパフォーマンス唐物コレクション群に是非加えたい、、、、

思わずポチッとなしそうになってしまっただす~(滝汗)

本来、三好政(1549年~1568年まで存在した室町幕府の旧体制をそのまま受け継いだ武家政権 織田政権前の「プレ統一政権」という見方もある)となったからには、一級品の曜変天目茶碗が渡っていてもいい筈なのですが、鑑定に出されたものはどうみてもショボイシロモノ。

同時代、足利義政から織田信長に寄贈された天下第一曜変天目茶碗は、現存最高とされる徳川家光から病に伏せる春日局に下賜した「稲葉天目」を超えるという程の大名物なので、このショボさはどうみてもおかしい。

まぁ、三好長慶所有品とされる物がホンモノであったとしても、所詮、三好政権などというマガイモノ政権であった故に、曜変天目茶碗も二級品のオマージュ品を譲渡されたというオチなのであろうか。少なくとも1400円で売られているレベルのシロモノであることは確かなようだ(爆)。

ちなみに春日局子孫の淀藩主稲葉家から「稲葉天目」を買い取ったのが三菱財閥総帥の岩崎小弥太(4代目総帥)ですが、この岩崎家の家紋も「三階菱」であり、小笠原氏の臭いがプンプンするのです(爆)。
※三菱もその前身の九十九商会も先に「菱」の使用が前提にあるようです。

さてさて、話は戻って、、、、

武田氏の家紋である「四つ割菱」(武田菱)は有名ですね。武田の「田」の字を図案化したものだとか、、、いろいろな説があります。

武田菱
(武田菱)

小笠原氏、武田氏ともにを家紋に使用していることから、ここに何か秘密がありそうです。両氏の祖は源義光河内源氏の2代目棟梁の源頼義の三男・新羅三郎)ですね。

前九年の役」(奥州十二年合戦)の折、で新羅三郎義光住吉神社で戦勝祈願した際に」神託により拝領したのが源氏八領の1つ「楯無(たてなし)」の鎧ですが、その大鎧に刻まれていた模様が武田菱の元となったという話もありますが、オイラはこの説の方が正しいだろうと睨む。

源氏八領
(現存するのは菅田天神社に奉納された「楯無」だけとされるが、義朝着用の楯無とは別物だろうとの話)

新羅三郎の父・源頼義後冷泉天皇から賜った「楯無」と「御旗」が武田氏の重代の家宝とされ、宗家に代々継承されて来ましたが、この前で誓ったことは全員が死を持っても守らなければならず、それ以上の議論は止めなければならなかった程に神聖視されたレガシー(遺産)でもあった。

甲斐源氏にとって、ある意味、神のような存在でしょうかwwww

鎧と旗
(非常に小汚い鎧と旗ですが、この2つの所有が宗家、惣領の証でもあった)

甲斐源氏の流れを組む武田氏は「長篠の戦い」の勝頼敗戦で勢力が大きく削がれ、さらに織田信長甲州征伐で天目山で自害して嫡流としての戦国大名武田家は滅亡しましたが、庶家はまだまだ多く残っている。その1つが信玄の次男・信親家系と七男・信清家系で、菩提寺恵林寺)で信玄法要の施主を代々行ってきた次男・信親家系が公式には正統継承者とされている。分家や傍流まで含めると板垣氏、甘利氏...等、現在でも多く残る。

しかし、武田菱とは本当は、、、、

プロビデンスの目なのかもしれない(爆)。

EYE2.jpg
キリスト教でもよく使われる「万物を見通す目」とは摂理=神の意志・恩恵の象徴)

景教が伝わった新羅から来た八幡神(ヤー=ヤハウェ)を信仰する源氏なので、有り得そうな話wwww

まぁ、武田菱は山口組山菱とも非常に似ているわけですが、一応、無関係で繋がりは無いとされている。しかし、無理矢理、「菱」の上に「山」を当て嵌めた風にも見えるので、実は何か繋がりがあるのかもしれない。

山菱

武田信玄と似た名で、Xメンの『ウルヴァリン』に登場する矢志田信玄の英語Wikiの説明には、、、、

Shingen was a Japanese Yakuza crime boss who disgraced his family name,

と思いっきり出ています(爆)。

この矢志田信玄の非嫡出の息子で日本人ミュータントなのが、「シルバー・サムライ」こと原田剣一郎ですが、シルバー・サムライはウルヴァリンの最大の敵の一人であり、エネルギーをあらゆるものに注ぎ込むことができる能力を持ち、その能力は刀に用いることで刃の周囲にタキオン・フィールドを生成し、アダマンチウムを除き、ほぼすべての物質を切り刻むことが可能だという。

かつては国際的テロリストとして知られているヴァイパーのボディガードでもあり、その後、一時的に傭兵となっていたが、彼の異母妹矢志田真理子の死後に矢志田一家の総帥となったとある。

矢志田一家-Yakuza crime boss-シルバーサムライ-国際テロリスト-傭兵

非常に意味深な内容です(笑)。

ミュータント故に、当然、手に負えなくなったミュータント一掃のプロトコルX」の対象でもあります。

さて、山口組自体は1名の「組長」(親分)、数名の「舎弟」(弟分)、および数十名の「若中」(子分)から成る計100人弱の組織に過ぎないが、組長を除く全組員はそれぞれが数十人から数千人の構成員を抱える組織の首領であり、「直参」(直系組長)と呼ばれ、企業舎弟...等の末端まで含めると膨大な数となる。

系列組織の中ではまさにピラミッド上部に浮ぶ「万物を見通す目」のような存在。

経済誌『フォーチュン』の推計(2014年)では、世界のあらゆる犯罪組織の中で屈指の収益力を有する組織であるとされ、麻薬の密売や賭博などの非合法ビジネスによる総収入は年間およそ66億ドル(約7000億円])に達し、ロシアンマフィアに次ぎ、イタリアマフィアの最大組織カモッラを凌ぐ規模だったという。

しかし、元々は「大嶋組」の傘下として約50名の労務者を抱える「山口組」として1915年(大正4年)に発足。いつしかその勢力は本家の大嶋組を凌ぐものとなり、神戸中央卸売市場の開設に伴う利権を巡り大嶋組と対立し、抗争勝利の末、同卸売市場の運搬作業の独占権を得て大嶋組から独立(1932年)。その後、三代目田岡一雄を首領としてから急激に全国に勢力を伸ばした。この快進撃の背後にはバックがいそうですね。当然、それは「菱」の系譜かと、、、、

しかし、天ちゃん同様、TOC認定から避ける為なのか2015年に在日系とB系に組分裂。現在は更に「六代目」「神戸」「任侠」の3つの組織にまでに分裂し、既に最盛期ほどの収益力は無くなっており、自爆シークエンスの「プロトコルX」が作動した結果だともいえる。

このシルバーサムライの造形は、STARWARSキャプテン・ファズマか、仮面ライダー鎧武(ガイム)の最終形態にしか見えませんねぇ~。まぁ、シルバーサムライの方が先に出ているので、他の2つはシルバーサムライのオマージュ品(パクリ)(爆)。

銀鎧01
(キャプテン・ファズマ、鎧武最終形態、シルバーサムライ)

源氏八領の中でシルバーサムライに該当しそうな大鎧は、色的に「沢瀉(おもだか」と「源太が産衣(げんたがうぶきぬ)」ですね。

■源太が産衣(げんたがうぶきぬ)
源氏の嫡男の鎧の着初めで使われたという甲冑。異本によっては「元太がうぶぎぬ」、「くわんたかうふきぬ」、「ぐはつたが産衣」「丸太産衣」などとも記される。小一条院に忠実に仕えた源頼義は覚えもめでたく、院より生まれたばかりの嫡子源義家の顔を見たいとの言葉があり、ここで拝領した、もしくはこの機会に新調して、その袖に義家を座らせて参内したことからといわれる。胸板に天照大神八幡神をあらわし、左右の袖には藤の花が威してあったと記されている。平治の乱では、源頼朝が着用し、敗走中に美濃の山中で脱ぎ捨てられた。この時、頼朝は満12歳である。

■沢瀉(をもだか)
詳細は伝わっていないが、以下のような推測がなされている。日本の鎧は、鉄や革に漆を塗った小札(こざね)を糸で綴じて(これを「縅(おどし)」という)作るが、ここで数種類の糸を使って袖(そで)や錣(しころ)に三角形の文様を描く手法を、オモダカの葉の形になぞらえて、沢瀉縅(おもだかおどし)と呼ぶ。沢瀉も、この形式の装飾が施された鎧と考えられている。平治の乱では、義朝の次男源朝長が着用したという。敗戦で落ち延びる際に、雪中に脱ぎ捨てたという。


両方とも敗走中に脱ぎ捨てられている。

あまり「縁起がいい」シロモノとはいえない(爆)

まぁ、「楯無」自体も敗走中に脱ぎ捨てられているので、これを家宝と仰ぐ武田宗家の滅亡も実に象徴的な出来事だったのかもしれない。

■楯無(たてなし)
その堅牢さから盾がいらないといわれるのが名の由来である。甲斐源氏に伝来した家宝であった。源氏八領のうち、唯一現存するものとされる。平治の乱源義朝が着用し、敗走の際に脱ぎ捨てられたが、回収され甲斐武田家に届けられたという。江戸時代の一説によると、それを石和五郎(武田信光)が拾って甲斐武田家に持ち帰ったというが、平治の乱当時に信光は幼児であり、この伝承には疑問が持たれる。家祖新羅三郎義光以来、相伝されてきたという武田家の伝承とも矛盾する。また、『平治物語』の楯無は黒糸威と描写されているが、菅田天神社に現存する武田家伝来の楯無は小桜韋黄返威であり、義朝着用の楯無と武田家伝来の楯無は別の物と考えられる。


まぁ、源義朝が着用したのは別物でしょうな。

源家重代の太刀「髭切」「膝丸」を相続した河内源氏嫡流源頼朝の末裔である足利家の家宝に対し、甲斐源氏家宝の「楯無」「御旗」は戦での見栄えは良いが、「使い捨て」の装飾装備品に過ぎないので、数段劣るというのがオイラの見立てだす。

源氏八領のうち現存するのは「楯無」の一領だけなのは、大事にされずっと家宝として屋敷奥に安置され実戦には使われなかった為であり、現代まで現存しているのも無理のない話。他の七領は敗走中に、皆、脱ぎ捨てられている。

八幡大菩薩の御加護もあまり期待できなそうです(爆)。

日本もそろそろ「菱」の呪縛を解き、脱ぎ捨てる時が来ているかもしれないだす~