2019/03/17(日)滅私奉公の本当の意味
みなさん、滅私奉公という言葉をご存知でしょうか?
ネットで調べてみるとこんな意味で考えられています。
https://yoji.jitenon.jp/yojic/1222.html
引用はじめ
個人的な感情や欲求、利益を捨てて、社会や国家などの公のために尽くすこと。
または、そのようにして立場が上の者に尽くすこと。
「滅私」は自身の利益や欲求を捨てること。
「奉公」は公や立場が上の者に奉仕すること。
引用終わり
でも、これはスピリチュアルな意味では絶対にしてはいけないことなのです。
こんなことしたら「私」をどんどん傷つけることになります。
自分を傷つけてまで「奉公」する必要などありません。
「私」という意識が常時あるうちは「奉公」など無理なのです。
「私」があるうちは自己愛に徹してください。
利己的であってよいのです。
ただし、あなたの自己愛の行使が著しく他人の権利を侵害するならば、あなたは社会から罰を受けることになります。
当然です。
あなたの自己愛の充足が、他人の権利を著しく侵害しなければ達成できないほど強力ならば、あなたはキメラでありアルコンでありカバールなのですから。
あなたはいずれあなたの国の法なり宇宙の法に触れ、監獄に収監されるなりセントラルサンで解体処分となります。
あなたは自己愛の充足を他人に迷惑かけまくりでも徹底的に追及するか、他人に迷惑をかけない範囲で時間がかかるのを覚悟の上でゆっくりとちまちまと行うかはあなたの自由意志による判断にゆだねられます。
カバールでいるか小市民でいるかは自分で選べます。
どちらも嫌なら実は別の道があります。
本当の「滅私奉公」への道があるのです。
これには本当の「思い遣り」と「省みる」を訓練する必要があります。
本当の「思い遣り」というのはあなたの「思い」を他人に「派遣」するのです。
おすすめなのはあなたの「大嫌いな人」に「思い遣り」訓練を敢行することですね。
あなたとあなたの大嫌いな人とでは、常に利害関係やものの考え方が対立しています。
だから、相手が喜んでいる時、あなたは腹が立って仕方がない。
で、この訓練を続けていると相手の気持ちに相手の感情に自分がなってしまう瞬間が訪れます。
そんなすぐには来ませんよ!
時間がかかりますがやがてそういう瞬間が来るのです。
自分が腹が立っていたはずが、相手への「思い遣り」が思いの派遣が成功するとあら不思議それが快感に変わるのです。
相手の気持ちに自分の気持ちが乗り移ってしまって自分の気持ちが相手の気持ちに変換されてしまうのです。
こうなったら「省みる」の訓練をする好機が訪れたということです。
「思い遣り」の訓練では、あなたの視点は内から外に向いていました。
あなたの思いが相手にたどり着いた時点で、今度はあなたの視点をその相手の方向からあなたの身体の方向へと180度転回してみましょう。
外から内を観るのです。
そうすると物質的身体の感情が「あなた」を「あなた」が見えないところから操作して支配している様子がはっきりと見えてきます。
自分は物質的身体を支配していたつもりが実は逆だったことがはっきりと見て取れます。
そして、「思い遣り」訓練でその物質的身体による無意識下での支配から自由になった「あなた」を物質的身体が「認識できていない」こともはっきりと分かります。
これが分かりさえすればあなたは物質的身体の奴隷から脱して物質的身体の主人になれるのです。
本来の「私」に復帰できるのです。
物質的身体は動物と同じです。
取扱いは簡単です。
適度にえさと愛情をあげる。
これだけです。
犬や猫のように飼えばいいだけです。
こうやって「思い遣り」と「省みる」の訓練を続けながら日常生活をしているとある瞬間「自分がない」時があることに気づきます。
「自分がない」時に「奉公」しても全然ストレスも不満も感じないことに気づきます。
これが本当の「滅私奉公」なのですね。
もちろん「意識」はありますよ!
でも、「これは私だ!」という意識はないのです。
もっと違う意識なのです。
本当の「滅私奉公」とは、「私という意識」が消えてなくなって「奉公」しか残らなくなることなのです。
こういうい状態では他人にとんでもなく面倒くさいことを頼まれてもホイホイと楽しくできちゃうのですね。
「奉公」と対立していて「奉公」が嫌で嫌でたまらなかった「私」がないんで「奉公」がとてもイージーなのです。
だって「私」がなかったら後は「奉公」しか残らないでしょ?
本当の「滅私奉公」に至るには順序があるのです。
自己愛の充足→思い遣り訓練→省みるの訓練→本当の滅私奉公
偽善者はやめて本当の善人を目ざしてみてください。
http://www.tees.ne.jp/~houjuzan/jugyuzu.html