希野正幸のインフォブログ

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神理と神力 アントワインの記事の和訳

2018年2月18日 日曜日

神理と神力

 

アントワインの原文はこちら

http://recreatingbalance1.blogspot.jp/2018/02/truth-and-power.html

 

 これは大道(訳注:原文ではEthics。文頭に現れた単語ではないにも関わらず、大文字で始まることからアントワインは固有名詞として扱っていることがわかる。また、Ethicsの説明として“beyond what may appear on the surface表層に顕れ出でる事象を超えたもの”と記載されているため、この単語の訳語として、倫理、道徳、道義などの“人間が決定した物事”を意味する言葉を当てるのはふさわしくない。よって、老子が人倫を超えた法則・規範を表す言葉として採用した”大道”を訳語として当てることとした。「大道廃れて仁義あり」という老子の有名な一文に使われた”大道”である。)とは如何なるものかを感得(訳注:原文ではdetermine。Ethicsが上述のような意味合いなので、この単語も“人間が人間の判断基準によって決する”という意味合いの訳語を当てるのはふさわしくない。そこで自分の能力を超えた事象を超常的な力を借りて理解するという意味合いを含めて”感得する”という訳語を用いた。)する平易な方法である。大道は表層に顕れ出でる事象を超えたものである。

 神理と神力(訳注:原文ではTruth and Power。この二語も大文字で始まっており、明らかに物理次元の存在者が理解しているtruth and powerとは異なる。よって、ソース(根本創造主)から流出した高次元レベルでの事象であることを強調するために”神理と神力”と訳出した。)は、全ての人間の全ての活動を動機付ける二つの事象である。

しかし、全ての人間がこれらの二つの事象に関わりを持つ様は多岐にわたる。

それらは今この瞬間にそれらがどの径にいるのかを判断(訳注:原文ではdetermine。この文章の後、人間の判断が誤りである可能性があることを例示しているので、ここは本来のdetermineの意味のうち、最も適していると思われる“判断する”を訳語として用いた。)する。

神理はその原因であり、神力はその効果である。

 

 人間が取り得る三つの主要な径がある。

 

神力のみを探し求める:闇の径

 人間が神理に対する敬意と注意を払わずに神力のみを探し求めることは、闇に奉仕する結果をもたらす。

彼らは物質界などの低次界に基づいた満足のみを求める。

彼らはより低次の界の基盤となっているより高次の界の真理を考慮したりはしない。

彼らは知識を、例えばオカルト的知識のみを探し求めるのである。

そして、その知識の背後にある神理を一顧だにしないのである。

彼らはそれを個人的な力のために利用しようとするばかりである。

彼らは、表向きは闇の勢力の一員ではないかもしれない。

しかし、彼らはどのみち闇の行動計画に奉仕しているのである。

 

神力の助力を得るために神理に近づく:灰色の径

 多くの人間は何らかの形で、神理が究極的には全ての力の源泉であることを理解している。

それ故、彼らは何らかの神理を知ろうとそれを探し求める。

しかし、多かれ少なかれ、より大きな神力を得るためにそうするのである。

ここには様々な程度の異なった径がある。

様々な異なった灰色の階調、暗い灰色から明るい灰色に至るまでの様々な階調を帯びた径があるのである。

その階調はどれだけ神理あるいは神力に関心を向けるかに応じて決まってくる。

人々は様々な程度の神理を保有することになろう。

そして彼らは、それを様々な神理に背いた目的のために利用するのである:政治的権力を得るために。オカルト的あるいは超常的な力を得るために。名声と賞賛を得るために。他人に勝る力を得るために。財産と華やかな経歴を得るために。・・・

 その行為は、表向きは彼らが神理と神性の光(訳注:原文ではLight。やはり大文字で始まるので、ソースに由来する高次の光であることを訳に表現するため、”神性の光”と訳出した。)に奉仕しているように見せかけるかもしれない。

そして、彼らの活動の多くは、真に神性の光に奉仕しているかもしれない。

しかし、彼らは様々な局面ごとに、闇にも神性の光にも奉仕する可能性を秘めているのである。

多かれ少なかれ、彼らは気づかずにそうしているのである。

例えば、彼らは、彼らが全一性の一部分であると認識できないが故に、生きとし生けるもの全ての癒やしに関心を向けているにも関わらず、知らず知らずのうちに個人的な悟りにより多くの注意を払ってしまうかもしれない。

このような行為の裏に潜む原因として、様々な恐れ、様々なトラウマ、死への恐れと生への執着などが心の奥底で気づかれることなく蠢(うごめ)いているのである。

そしてそれらは、人々に償い(訳注:他人に何か奉仕した代わりに何らかの報償(金銭、物品、賞賛、服従など)を求めること)を、自分のみを救うことを強いるのである。

 心の奥底深くを覗いてみるならば、彼らがどのように弁明していようとも、彼らが闇に奉仕しているか神性の光に奉仕しているかを知ることは、彼らの本当の関心事ではないのである。

 彼らが最も注意を払っていることは別の目的なのである。

 

神理を探し求め、神理のために神力を行使する:神性の光の径

 これこそが神性の光に至る真にして唯一の径である。

 様々な他の個人的な関心にも関わりなく、すでに全ての力が神理に奉仕するために用いられている。

 少なくとも短期的視点においては、神理の探求にそぐわない個人的な関心事の数々に人生の貴重な時間を捧げまいとする困難な選択をなすことに躊躇することはない。

神理の発展に益することであれば喜んで事をなすのである。

神理とはつまるところ、ほとんど全てに奉仕することである。

何故ならば、最高の神理はワンネスとその下で実現する真の愛(訳注:原文では大文字で始まるLoveなので“愛”ではなく”真の愛”と訳した)と真の平和(訳注:原文では大文字で始まるPeaceなので”平和”ではなく”真の平和”と訳した)だからである。

だからこそ、奉仕されるべきものなのである。

真の愛と真の平和は一なる生きとし生けるもの全てに可能な限り手厚く分け隔てなく与えられるもの故。

これは神力を否定することを意味しない。

より多くの神理が表現されるところに、より大いなる神力が顕れるのである。

何故ならば、ただただ神力は神理の効果である故に。

しかし、全てのより大いなる神力は、それを造り出す神理のために専ら用いられるべきものなのである。

 

 

 私はこれが、地球に生起している複雑な情勢を正しい方向に導く助けとなる指針として有用であると判断している。

 

生きとし生けるもの全てに解放を!

光の勝利を!