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アントワイン (12/14) 倫理

 自分を見つめ直すかも・・・ (^_^;)

 



 
アントワイン
2017年12月14日 
 
倫理


現時点において、恐らくは最短で地球解放に至るために大いに必要とされ頼りになると私が考えているのは、私たちの注意を再び倫理へと戻すということです。
 
ここ数十年、特に1996年から、人々を生存競争へとかき立てるエネルギーが激しさを増し、このような状況の中では、単なる倫理的考えは捨て置かれた状態にあります。
 
とはいえ、私たちの幸福は、個人的にも集団的にも適用される倫理に強く関連付けられています。
 
私はもちろん、いつも完全であれとなどは主張しようとは思いません。
 
とはいえ、問題なのは、よりよい方法を考え、それを実行することなのです。私が重要と考えているいくつかのポイントを提示したいと思います。
 
1.他の人の自由意志を尊重すること。
 
これは最も大切です。小さなことであれ、大きなことであれ、全ての意識ある存在のために、あらゆる状況下で実行されるべきものです。
 
私たちは、光の勢力がいつも自由意志を真剣に尊重していることを、例えば、彼らは私たちが私たちの自由意志に基づいて彼らに願い求めた時にのみしか、個別的には私たちを助けてはくれないということを学んできました。
 
私たちのハイアーセルフでさえ、私たちのロウワーセルフがハイアーセルフに協力的な時にのみ私たちと関係を持ちます。
 
光の勢力やハイアーセルフは私たちを導くかも知れません。しかし、常に私たちに選択の余地を残します。
 
自分で選択するという行為は、全ての意識ある存在に適用されるべきことなのです。そして、それは小さいことであれ、大きいことであれ、声を出してのことであれ、沈黙の内にであれ、各自の自由意志による批判的検証を伴うのです。
 
私たちは人々に彼らの人生を歩むように自由にさせようではありませんか!
 
私たちの人生のために私たち自身で選択をしようではありませんか!
 
他の人をどうにかしようとすることは私たちのすることではないのです。
 
私たちは誰かの責任を負うことは決してできないのです。
 
私たちが他の人たちに(そして自分自身に)できる最善の奉仕は彼らの自分自身の主権者としての意志を最大限に尊重し、彼らの望むままにさせることなのです。
 
このことは私たちが他人に利用されるが儘のお人好しになることを意味しているわけではありません。
 
私たちは私たちで私たちの意志、識別力そして生き方を維持し続けなければなりません。
 
私たちは私たちで、私たちのためにこれらを適合させて行けば良いのです。
 
もし、誰かが私たちにネガティブな影響力を行使しようとするのならば、私たちはそこから立ち去れば良いのです。
 
私たちはシンプルに最善を尽くそうではありませんか!
 
私たち自身を例示することによって、私たちが何を最善だと信じているかを他の人々にお見せすることができるのです。
 
2. 私たちは一つです。

確かにそうなのですが、状況によってはこのフレーズは陳腐なものになります。
 
なぜなら、時としてこのフレーズは本来の意味を取り違えて使用されるからです。
 
私たちは互いに孤立して存在しているのではありません。私たちは一つの生命体の一部なのです。
 
独立した生命体として生きているように、自己の生存にしか興味がないように、自己の利益しか考えないように、自己の悟りのことにしか関わらないように、私たちが他の人々をないがしろにして自己を救うことばかり考えるならば、私たちと私たちの社会はは来る日も来る日も破滅への道を突き進むことになるのです。
 
高いレベルの内面的気づきを達成しており、最もアセンドした存在の一人であるブッダは、人々が援助を必要としている限り、全ての人々が煩悩から解放されアセンドするまではソースに帰一することはあるまいと固く心に誓っているのです。
 
私たちは皆、本当に一つの生命体であるゆえに、誰かの苦しみは全体に影響を及ぼすのです。
 
私は各個人が全体のために犠牲になれと言っているのではありません。
 
私は、全体を助けるということがいかなる意味を持つのかを理解することは、私たちを含む全ての人々を救うことになると言っているのです。
 
そして、そのような理解に至った上で私たちのエネルギーをその目的のために振り向けるべきなのです。
 
私たちは常日頃から、「私が全体の利益に資するために出来ることは何か?」と自らに問いながら、その答えを自分の行動の指針とすべきなのです。
 
いつもそのようにしているならば、その問いに対する答えは直ぐに導き出されます。
 
なぜならば、多くの光の存在が人助けを厭わない人間たちが現れるのを、そしてそのような人間たちに惜しみない援助を与えることを待ち望んでいるからです。
 

 
3.相互関係は必ずしも因果関係を意味しない。
 
言い方を換えるならば、軽率に結論付けるべきではない。
 
というのは、互いに関連しているように見える二つの事象が必ずしも原因と結果という因果関係で結ばれているわけではないのです。
 
例えば、誰かの家において、その家の住人たちがより沢山のタバコを吸うならば、その家の中の灰皿の数が増える傾向にあることを発見したとしましょう。
 
その観察結果から、私たちは、よりたくさんの灰皿が家の中にあるのならば、その家の住人たちは沢山タバコを吸うに違いないと推測しがちですが、そうではないのです。
 
その家の住人たちはタバコは吸わないものの家を訪れるゲストのために灰皿を用意しているだけかも知れないし、食べた果物の種を捨てるために灰皿を用意しているのかも知れないのです。
 
物事を正しく認識するためには、あなたの頭の中で半ば常識となっている限定された認識世界を脱しなければならないことを頭の隅にでも覚えておいてください。
 
この二元性の世界というのは、幻想(訳注:過去の経験に縛られた限定的認識の罠 )の影響を非常に受けやすいのです。
 
エネルギーに敏感な多くの人が闇/無明(訳注:正しい認識状態に達していない)というアストラル体(感情体)、エーテル体あるいは低位メンタル体の罠に陥るのです。
 
例を挙げると、あるチャネラー、ヒーラー、超能力者、霊媒などが該当します。
 
ある人は本当に何かを知覚するかも知れません。
 
しかし、物質界に由来しない何かを私たちが見たり聞いたりしたからと言って、それが無条件に本当であることにはならないのです。
 
ある人はエーテル界、アストラル界あるいは、低位メンタル界の事象を見たり感じたりすることが出来るかも知れません。
 
確かに、物質界に比べれば、これらの界の事象は魅力的に映るでしょう。
 
ですから、そういう人は、それらの界に起こっている事象に囚われてしまって、それらの界における事象がハイアーセルフに基づくものとは限らないことをついつい忘れてしまうのです。
 
そういう人は、未だにまだ、自分が幻想(訳注:過去の経験に縛られた限定的認識の罠 )に囚われていることを理解できないのです。
 
意識に上ることであれ、無意識下でのことであれ、それらの界からもたらされる導きや情報は、必ずしもハイアーセルフ界からもたらされたものとは限らないのです。
 
自己の内面世界の浄化に励むことによって、自分の感情や認識の制御を訓練することによって、自分を偽ることなく、自分自身のありのままを正直に見つめることによって、自己のあらゆる側面のバランスを保つことによって、内面世界でハイアーセルフに繋がることによって、より多くの理解がもたらされるのです。
 
4.  内面世界のハイアーセルフに波長を合わせよ。
 
以下に示すことが助けになるでしょう:
 
もし、あなたがあなたの感覚、願望、感情(別の表現をすればアストラル体)を観察するならば、あなたはそれらがあなたの行動を規定していることを認識することでしょう。
 
しかし、あなたはあなたの内面にもう一つの側面があることを認識するかも知れません。
 
それは、感覚、願望、感情を超えていて、あなた(訳注:自我)という枠をも超えた世界からあなたを観察することができるゆえに、あなたの行動を制御することが可能なのです。
 
例えば、あなたの自意識が何かを欲望し、しかしながら、あなたの内面世界の何かがそれをするのは正しいことではないと判断していることを、あなたが自分の内面世界を常に観察しているが故に気づくことができたなら、あなたは、その望ましくない欲望の行使を防止することができます。
 
そして、そのプロセスにおいて、あなたがアストラル体(これが欲望する自意識の正体です)とあなたの内面世界のより高い側面を区別することができるならば、本当のあなたがそのような自意識ではなく今言った観察者であることに気づくのであれば、あなたがそのような観察者/あなたの内面世界のより高い側面が命じていることを選択して実行するならば、あなたは進化の道を歩んでいるのであり、徐々にハイアーセルフとより緊密に繋がるようになってくるのです。
 
人は最初のうちは、自意識が何を言っていようともより正しい選択を実行できるのは理性であり、思考だと思うことでしょう。
 
ある意味ではそれは正しいといえます。しかし、理性はまだもう一つの筏(訳注:いかだ。ブッダは、お経(お経=聖典だけではなく、教義、宗教的儀式、宗教的用具、瞑想テクニックなど解脱するために使用していた補助的道具と手段の全体)を解脱(彼岸)に至るための乗り物になぞらえ、彼岸に至れば必要がなくなり捨て去る運命にある仮の乗り物であることの喩えとして筏を用いているのでこの言葉をvehicleの訳語として採用した)であり、ハイアーセルフの顕現ではまだないのです。
 
私たちはこのことを私たちの思考を観察することにより知ることができます。
 
そして、その観察により、私たちは自分たちの思考の内にもう一つの顕現を認識するに至るのです。
 
このため、もし、私たちの内面世界に好ましからざる考えが生起した時、私たちがそれを放棄することが、そして、より良い考えを選択することが可能となるのです。
 
このような選択を通じて、私たちは理性を形成するに至るのです。
 
そしてついには、私たちは、自分たちが観察者であることを認識するに至るのです。
 
この観察者こそが理性を望み通りに形成し得る選択権を有しており、それは、思考/理性そのものではないのです。
 
このプロセスは、理性という(訳者補足:真のハイアーセルフの臨在を妨害する)筏を沈/鎮めることにより、そして、(訳者補足:理性という筏が沈んだ/鎮まった中で語り出す)ハイアーセルフが語ることに従うべく選択権を行使することにより、真のハイアーセルフに更に波長を合わせることを可能にし得るのです。
 
そして、常時、私たちの注意をこのハイアーセルフに復帰させることにより、私たちは、(訳者補足:私たちが普段誤用している偽りの破邪顕正ではなく)無謬にして正真正銘破邪顕正の内的感覚を獲得するに至るのです。
 
ハイアーセルフの顕現こそが、無謬にして正真正銘破邪顕正の剣の行使を可能にさせるのです。個的人格の顕現(低位メンタル、感情、願望、肉体)は限定的な自我(訳注:「私」という現象)に由来するものであり、ハイアーセルフに再統合されるべきものなのです。
 
私たちがよりポジティブな活動を表現すればするほど、私たちはハイアーセルフからもたらされるパワーをより多く受け取って利用することが可能となり、ハイアーセルフは私たちのすぐ側にあって働くことになるのです。
 

 
5.あなた自身を識別して知る。
 
私たちはここで、ヘレナ・ペトロヴナ・ブラバツキー(訳注:1831-1891、ロシアの神秘家。神智学協会の設立者の一人。彼女の思想がイシュター・アンタレスコブラに大きな影響を及ぼしたことは言うまでもない。)の著作に従って、ブッダの教えを引用してみたいと思います:
 
我々はただ単にそのように言われているからといって、そのことを信じてはならない。
 
古代からのものだからと言って、ただ単ににその理由故に伝統を信じてはならない。
 
噂についても、賢人の著作についても権威によってもたらされたからという理由だけで信じてはならない。
 
何故なら、賢人は権威付けられたものに対して、次のように書き記しているからである。
 
根拠の不確かな空論を信じてはならない。我々はそれがデーヴァ(訳注:サンスクリット語に言う神、霊感をもたらすものとされる)からもたらされたものであるとされる場合であってもそれを疑っても良いのである。
 
我々がよく行うところの根拠の不確かな仮説に基づく推論も信じてはならない。
 
そのように思えるからと言った理由のみに基づいて類推された必要性を信じてはならない。
 
我々の教師や師匠の単なる権威に基づいてその者らを信じてはならない。
 
しかし、我々は、著作、教義、発言が我々の理性および気づきの意識により確証される場合はそれらを信じようとする。
 
彼はこう結論付けている。私はあなたがたにこのように教えておく。あなたがたが聞いたことをただ単に信じてはならない。
 
あなたがたの気づきの意識を信じなさい。そして、それに応じて十分に活動をなすのです。
 
一部の限られた人々からもたらされるごく限られた理解に頼ることによって理性を退化させないようにしてください。
 
というのは、そのような方法では決して明確なソウルの解放には至らないからです。
 
自分自身のためにご自分の能力の限りを尽くしてできるだけ深く、多種多様な事象を学び、学んで得たことを実行に移すことを繰り返してください。
 
そうすれば、私たちは集団の中の一員として、より多くのことをより深く実行し、(訳者補足:自分をも含む)集団に貢献することができるようになります。
 
6.  自分自身に正直に
 
ここで学ぶことになる重要なポイントは、アストラル界/感情界および低位メンタル界の幻想を消滅させることです。

 

“幻惑”(訳注:自分が魅力的だと思う幻想的価値への執着)というものがあります。

感情的/理性的に価値があると思うところのものと価値あるものそのものとは必ずしも同じではないことを理解することは重要です。
 
ここでは、アリス・ベイリー(訳注:1880-1949、英国の神秘家。神智学協会に所属していたが、彼女のジュワル・クール大師のメッセージを受け取っているという主張が他の神智学協会員の反感を買い、独立を余儀なくされた。独立後はアーケインスクールを設立した。)の著作「ニューエイジの修習課程第1巻」から引用してみたいと思います。
 
私はいくつかのより一般的な“幻惑”を列挙したいと思います。
 
それらは個人的視点から人類全体の視点へと自分の想念を適合させ拡張させる機会を奪ってしまうのです。
 
中略(訳注:これは私が訳を省略したと言う意味ではありません。アントワインがアリス・ベイリーが記した“幻惑”に関する第1項を省略したと言う意味です。)
 
2.大志という“幻惑”。
 
これらの“幻惑”は人々を自分が大志を抱く高尚な人物であるという、そして、光に向かって進んでいるという満足感で自意識過剰の状態にしてしまうのです。
 
このような人々は自分がスピリチュアルな大志を抱く大した人物であり、既に至高の到達点に至っているという、客観的自己批判能力を全く失った自意識過剰状態を終わらせて謙虚な修習課程へと立ち戻る必要があります。
 
3.過信という“幻惑”あるいは(訳者補足:高次の存在の)弟子であるというスピリチュアルな原理への盲信という“幻惑”。
 
これは端的に言えば、宗教原理主義者の盲信と言うべきものでしょう。この“幻惑”に囚われた人々は自分の視点が無謬であると信じて疑わないのです。この“幻惑”は自己のプライドを大いに満足させ、自分は権威者であり、絶対的に正しいという自己信仰に陥らせるのです。このような背景が神智学教徒にあるのです。(訳注:先程のアリス・ベイリーに関する訳者の訳注を思い出していただきたい。アリス・ベイリーは神智学協会を追われたが故に神智学協会を批判しているのである。)
 
4.義務という“幻惑”。
 
 この“幻惑”は責任感という感覚への過度の傾倒をもたらし、(訳者補足:過度の責任感の重圧がもたらす度を過ぎた慎重さによって生じる)積極性の欠如や些細なことへの執着を生じさせます。
 
5.周囲への知覚過敏という“幻惑”。
 
この“幻惑”によって、(訳者補足:自意識過剰であるが故、周辺環境が気になって仕方がなくなり)知覚過敏によりフラストレーションが溜まり、無用な一連の行動への執着(訳者補足:このような“幻惑”に囚われた人はある一定の行動パターンを取らないと不安で仕方がなくなるという強迫概念に囚われることが多い)に至ることになるのです。
 
6.自分の精神があらゆる全ての問題を解決する能力があるという“幻惑”。
 
この“幻惑”は必然的に(訳者補足:他人からの顰蹙を買い)孤立と孤独へと至る尊大さをもたらします。
 
7.献身/帰依というアストラル体の過度の刺激をもたらす“幻惑”。
 
この“幻惑”に囚われた男女は、自分が信じ、依存するただ一つの思想、人物、権威そして真実(訳者補足:だと本人が固く信じている“幻惑”)しか見えなくなってしまいます。そしてそれはそのような人々の狂信的な帰属意識とスピリチュアルなプライドを満足させるのです。
 
8.肉体によってもたらされる忘我状態の強烈な衝動への欲求という“幻惑”。
 
このような“幻惑”に囚われた人々は(訳者補足:敵を作り出し)絶え間ない闘争と騒乱に身を置こうとします。この“幻惑”に囚われた人々は平和と平和の果実をもたらす一切の活動を否定します。そして、それは終末の日をもたらすに違いありません。
 
9.個人的野望という“幻惑”。
 
この他にも、個人レベルであれ、世界レベルであれ、多くの“幻惑”があります。しかし、いずれの“幻惑”も一定の決まった傾向をもたらすのです。
 
識別力を働かせる良い方法は、今、感得している価値観や境地に対して精神的および/あるいは感情的に執着しているか、必要に応じてそれを容易く手放すことができるかを自己点検することです。
 
もし、あなたがそれに執着していると感じるならば、それは幻想/幻惑のようなものなのです。
 
というのは、低位メンタル界およびアストラル界(訳注:感情界)はこれらの幻想/幻惑から引き離され、来るべき真の価値観あるいは境地に導かれるため、明鏡止水の一切の精神的動揺が治った受動的状態に至らなければならないのです。
 
そして、その静かなる境地はロウワーセルフが創り出せ得ないものなのです。その境地はハイアーセルフからのみ受け取ることのできるものです。ロウワーセルフは水面に風景を写し込んでいる湖のようなものです。
 
そして、ハイアーセルフこそが真の風景なのです。
 
もし、その湖の水面が波立ったならば、水面に映った風景を適切に観察することはできません。
 
幻覚は自我が自身の抑圧された欲望的感情を覆い隠すために創り出したものなのです。
 
ですから、その幻覚を取り除いてみると、その時初めて自分の隠された欲望的感情に気づくことになるのです。
 
どうぞ、幻覚を去らせて、欲望的感情を手放してください。
 
そして、新たに現れたより良い道程を歩んでください。
 
このことはとても重要です。
 
なぜならば、闇の勢力は(訳者補足:ライトワーカーの心の奥底に潜んでいる)あらゆる未解決の感情的、思考的問題を増幅させて、それらを利用して(訳者保補足:個人的な)心理的な葛藤や(訳者補足:ライトワーカー間の)対立を創り出したり、生活上の様々なネガティブな状況(訳者補足:享楽的誘惑)を創り出して(訳者補足:ライトワーカーたちを)その誘惑への依存/執着へと誘うのです。
 
私たち自身の内面世界の浄化こそ最善かつ明確なプロテクションとなるのです。
 
そして、より進化した生活へと至るには更に沢山の準備が必要です。
 
もし、状況が幻覚に囚われた状況を脱したのならば、私たちは第4ポイントで言及した内的な顕現により、よりクリアで私心のない建設的な行動へと連れて行かれることになるでしょう。
 
7.両極性(訳注:白か黒かをはっきりさせないと気が済まないデジタル化)の融合を探求する。
 
視点やエネルギーの一方を過度にもう一方と分離させて二極化を図るような方法で考えたり、議論したり、感じたり、行動したりするのを避けてください。
 
反対の極性の分離は異常(アノマリー)をもたらします。というのは、ソースはワンネスの境地の中に臨在するからです。
 
異常(アノマリー)が形成されるや否や、私たちは両極性のどちらか一方に与するように仕向けられてしまうのです。
 
いずれ、(訳者補足:異常(アノマリー)が)適切に浄化される時、全ての対立物はお互いに補完され統合されます。 
 
もし、状況がまだ整っていないのであれば、事態に関わらず放置し、二極分化を後押しすることだけはしないでください。
 
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二極分化の考えを置き換えて改善する方法の実例を挙げてみます。
 
「他者に奉仕するか自分に奉仕するか」という二者択一に対しては、「一なるもの/ソース/一なるものの光/一なるものの愛/一なるものの生命に奉仕する」という考えでそれを置き換えてください。
 
「自分のことは自分でするか助けを求めるか」という二者択一に対しては、「人生というオーケストラにおいて自分の役割を担う」という考えでそれを置き換えてください。
 
「世界を救うか自分を癒すか」という二者択一に対しては、「一なるもの/一なる生命を癒す」という考えでそれを置き換えてください。
 
「闇の勢力のヤツらを始末すれば幸せになれる」という考えに対しては、「道を見失った全ての存在は癒され、一なるものの光へと帰って行く」という考えでそれを置き換えてください。
 
「誰かの心身の傷対他の誰かの心身の傷」(訳者補足:誰かの傷の手当てを優先することにより、他の誰かの傷の手当てが後回しにされるのではという疑念)という考えに対しては、「皆で一緒にユニークな洞察を得てこれらの問題に皆で協力し合って対処できる」という考えで置き換えてください。
 
「誰かの願望対他の誰かの願望」(訳者補足:こちらを立てればあちらが立たずという疑念)という考えに対しては、「ウィンウィンの解決法を探しましょう」という考えで置き換えてください。
 
その他諸々が考えられます。
 
このリストは全てを尽くしているとは言えませんが、キーポイントは押さえていると信じています。
 
これらのことを本当に実践すれば、一なるものの光のリアリティを個人レベルでも集団レベルでも現実化するのに助けになることとなるでしょう。

私たちの倫理はこうして、“aest -ethics”(訳注:aest のaはasymmetry、apathyなどのaであり、〜ではないという意味の接頭辞である。また、estはラテン語のbe動詞であるsumの三人称単数の現在形であるestである。よって、aest-ethicsは、直訳すると「倫理ではないところのもの」という意味になるが、アントワインの今回の記事は人間が陥っている限定的定義の罠について論じていることから、この趣旨に沿って以下のように訳出した)語義として限定的に定義されるところの“倫理”を超えた真の意味の“倫理”を現実のものとするのです。
 
Victory of the Light!
 
 いかがでした。自分を見つめ直して修正する必要を感じた方もいらっしゃるでしょう。管理人は修正箇所が一杯ありすぎて・・・、なので、マイペースでゆっくりと修正していくことにします。(^_^)>

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