希野正幸のインフォブログ

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八幡神の正体!!!

さてさて前記事で登場した八幡神

これは秦氏が創建した宇佐神宮を総本社とし平家も源氏も篤く信仰する武運の神ですが、この崇敬は神宮皇后の戦わずして勝った三韓征伐の逸話に起因する。だが、八幡神には非常に謎が多く、八幡(ヤハダ)神の名は一説にはヤハウェを表す「ヤー」であるとか、あるいはヘブライ語(又はアラム語)で「ユダヤ」を意味する「イェフダー」が語源だとも噂されている。

今回、この謎多き八幡神を掘り下げてみる。

八幡神言えば三韓征伐と深く関わると書きましたが、この経緯は下記のようであった。

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仲哀8(199)年9月、仲哀天皇熊襲討伐に為に九州に向かった仲哀天皇は、九州の地で神懸りした神功皇后から「新羅征伐の方が良い」という神託が出た。しかし、仲哀天皇は託宣を信じずに熊襲征伐を行うが敗北撤退。翌200年2月に筑紫の香椎宮崩御してしまった。

皇后らはこれを「神の託宣を聞かなかった為だ」と嘆いたという。

仲哀天皇の急死後、神功皇后が68年間政事を執行しているが、200年3月1日に神功皇后齋宮に入って自らが神主となり熊襲を討伐指示。その後、住吉大神から再び新羅征討の託宣が出たため、対馬の和珥津(わにつ)を出航。お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま海を渡り、朝鮮半島に出兵し新羅を攻めた。しかし新羅は戦わずして降服して朝貢を誓った。高句麗百済朝貢を約したという。そして帰国後に生んだのが誉田別尊応神天皇)。これが三韓征伐の大筋。

非常に眉唾なストーリーですが、多分、仲哀天皇神功皇后に暗殺されただすな(爆)。しかも、仲哀天皇崩御後、数年後に応神天皇が生まれており、「応神はいったい誰の子じゃ~」なのである(爆)。

記紀記述を全て正しいとするならば、万世一系はこの時点で既に破綻しておるのだすよ~。

まぁ、記紀に書かれる空白の4世紀以前の日本の歴史は、実際にあった事跡を暗喩的に書いた創作物というのがオイラの見解なので、当然、神功皇后も架空の人物であり、三韓征伐もその元となった似たような歴史的事績がある筈。今回、この辺のことを書いていこうと思う。

ここで八幡神を祀る総本社・宇佐神宮大分県宇佐市)を見てみよう。

八幡神を祀る八幡社、八幡宮若宮神社は全国に約44,000社もあり、宇佐神宮神仏習合前のもっと古くには「八幡宇佐宮」「宇佐八幡」と呼ばれていたが、神仏習合時には「宇佐八幡宮弥勒寺」と称していた。「弥勒寺」とあるように非常に救世主崇敬志向がのある神社であることが分かる。多分、八幡神を救世主と看做しているのでしょう。

元々、八幡は一般的には大分八幡宮(だいぶはちまんぐう 福岡県飯塚市)が発祥の地だとされていますが、社伝によれば、この大分八幡宮がある場所が神功皇后三韓征伐の帰途、一時逗留した地だそうです。ここには「応神天皇誕生の産湯の水」の社がありますが、ここから湧き出る湧水を産湯に使ったとされる。多分、記紀の記述に沿うように、ここで生まれたことにする為に「後付け」で作られたものというのが真相だとオイラは睨んでいる。

応神天皇産湯の水
応神天皇誕生の産湯の水)

その後、神託で大分八幡宮から福岡市の筥崎宮(はこざきぐう 式内社名神大社)、筑前国一宮、旧官幣大社)に八幡神遷座。そこから更に宇佐に分霊後、宇佐神宮が八幡社の総本山となっていった。これは瀬戸内海からのアクセスが良いことも1つの理由であろう。

宇佐神宮八幡神がメジャーになった切っ掛けは奈良東大寺大仏開眼供養。この大イベントで天皇と同クラスの装飾を施された輿に乗った八幡神が奈良に遥々やって来たことで、八幡神は仏教とジョイントして国家鎮護神の地位まで上り詰めた。また宇佐神宮伊勢神宮に次ぐ国家鎮護の地位を得ている。更に源氏平家の武家からも崇敬を受けて全国に分霊され、稲荷社を凌ぐ全国一位となるまでに普及した。

当然、この大イベント招致の背景には、高度な寺院建築技術を併せ持つが故に隆盛している仏教(百済派)に対して、今まで秦氏が土着民恭順化の為に作り上げたキリスト教混入宗教=神道側が率先して仏教へ習合化することで生き残りを図ったのだろうことが読み取れる。

八幡神仏の御加護が必要だったのです(超爆)

宇佐

また、宇佐神宮の祖宮は大分県中津市宇佐市の隣)の薦神社(こもじんじゃ 別名大貞八幡宮)であるという話もありますが、創建年代は宇佐神宮より遅いのに「祖宮」と呼ばれている。何故、「祖宮」なのか理由は判然としませんが、ここから遷座した形跡もないことから「八幡神誕生」に関わることではないかと睨んでいます。

薦神社の特徴として大きな池があり、それが御神体となっている点です。薦神社では池を「内宮」、拝殿を「外宮」と呼んでいますが、この御神体の池は三本の川のように見える入り江から為る溜池。この鳥居が立つこの池のことを「三角池(みすみいけ・御澄池)」と呼ぶ。

大貞八幡

また、ここには「神様の足跡」と呼ばれる八幡神が三歳の童の姿で降臨された時の足跡を祀った珍スポットも存在するが、まぁ、たまたま足型に似た窪みが付いた岩を祀っているに過ぎない。商魂逞しいというべきか、、、、アバタもエクボというべきなのか、、、、(滝汗)

足跡

御神体なのは非常に珍しいですね。全くないわけはないが、池が御神体なのは静岡御前崎の池宮神社(桜ヶ池)、山形県鳥海山大物忌神社(丸池様)、奈良の池神社(明神池)...等々が比較的大きなところ。池を併設していて御神体とした小さな祠などは数多く存在する。ただし薦神社だけは勅使を迎える程に格式高い点が他とは大きく違う点。

たかが水、されど水、、、、

実はキリスト教にとって「水」とはある特別なものを暗示象徴する言葉でもある。

聖書には、、、

「川のかたわら、その岸のこなたかなたに、食物となる各種の木が育つ。その葉は枯れず、その実は絶えず、月ごとに新しい実がなる。これはその水が聖所から流れ出るからである。その実は食用に供せられ、その葉は薬となる」
エゼキエル同47:12

「さて、祭りの終わりの大いなる日にイエスは立って大声で言われた。だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。これはイエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」
ヨハネ福音書7章37~39a節

「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。』
ヨハネ福音書4章13~14節


つまり、「命の川の水」が指し示すものとは「永遠の命」。 「三位一体」を形成する父なる神、子なる神から流れ出て聖霊を通じて流れ込む霊的エネルギーが「永遠の命」を維持するという眉唾な話ですが、このエネルギーの流れを「命の川の水」とキリスト教では呼び習わしている。

これはエヴァでいうところの電源不要となる「S2機関」と同じですね。

三本の川を溜める構造である三角池が崇められるのは、エイ州山、方丈山、蓬莱山から流れ出る三本の「命の川の水」が流れ出ると考えられた東三河地方が「三川」と命名されたのと同じ聖書思想からであろう。

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東海三神山は、弥生人の巡礼地となり、古東山道は其の道で在る。
弥奴国の橋島崎より古伊勢湾を下り文身国(後世日高見国、現在の名古屋市緑区大高)を経由し、大漢国の傍のエイ州、扶桑国方丈、蓬莱を回る。
三川とは東海三神山の各々の山から「命の川」が流れていると言う思想(聖書)からの呼称。
参川とも言い巡礼地を指す。
蓬莱(旧不死山、カルデラ湖付、745年陥没し大被害。新城の海、エイ州の麓の海は逆に隆起して後退)
【後代神仏習合の四国88(ヤハ、ヤハウェの略、現在エホバとも)ヶ所巡りに変更】

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京都下鴨神社の御手洗池の「足つけ神事」による無病息災も、蓬莱山にあるという不老不死の妙薬も、全ては同じ「永遠の命」思想からの来ていると思われる。多分、これは聖書よりも古くからある思想であり、聖書もその思想を反映したものだと睨む。

三角池の「角」の字は「スミ」「カド」以外に「ツノ」とも読みますが、似たものとしてミケランジェロのモーゼ像には「角」が映えています。これは聖書にモーゼには角があると書かれたことを忠実に再現したところから来ていますが、元々は1000年以上も前にカソリック公認標準ラテン語訳聖書である「ウルガータ訳聖書」において「光」を語訳して「角」としたところからくるもの。しかし、その誤訳の大元はウルガータ訳の元となったヒエロニムスの翻訳(紀元400年頃完成)にある。

記紀に登場する神武天皇にも角があったと書かれるのも、この誤訳を含んだ聖書を参考にしたからであり、もしヒエロニムスの翻訳が正しかったならば、「三角池」も「三光池」になっていたかもしれません。誤訳のお陰でお里が知れてしまったわけですが、これこそまさに神の采配(爆)。

モーゼ

三角池が聖書思想の産物の可能性があることが分かりますね。

さて今度は、宇佐神宮の元宮である大分八幡宮側から見てみよう。この大分八幡宮の神官の辛島氏が九州を南下して鹿児島に到って鹿児島神宮(別名:大隅八幡宮)を創建しているとある。しかし、何故かここが「本八幡」と称しているのです。う~む、本来の八幡信仰を残しているからだろうか、、、、、それとも本当の八幡神を祀っているからであろうか、、、、「本家はウチだよ」と言わんばかりの呼称であり、非常に面妖なことである。

寺社縁起本の『八幡愚童訓』には以下の記載がある。

震旦国(インドから見た中国)の陳大王の娘の大比留女は七歳の時に朝日の光が胸を突き、懐妊して王子を生んだ。王臣達はこれを怪しんで空船に乗せて、船のついた所を所領としたまうようにと大海に浮かべた。船はやがて日本国鎮西大隅の磯に着き、その太子を八幡と名付けたと言う。継体天皇の代のことであると言う。」

「大比留女は筑紫国若椙山へ飛んで香椎聖母大菩薩として顕現し、皇子は大隅国に留まって八幡官として祀られた。」


また『今昔物語集』には、、、、「八幡神大隅国に現れ、次に宇佐に遷り、ついに石清水に跡を垂れた」と記載されている。初めて大隅に現れて八幡として祀られたから鹿児島神宮を「本八幡」と称していることになるわけですが、となると神官辛島氏の九州南下布教は怪しくなる。

光により妊娠した中国系王族娘の島流しと出産、、、、この逸話自体、処女懐妊と誕生はイエス、また赤ん坊の時に葦舟で流された話はモーゼ、、、、新旧聖書の焼き直しの様でもある(ふふふふ)。

八幡信仰の出自が分かる内容ですが、中国側には処女懐妊と流した話がないことから、これは日本側で創作流布したものであろう。この一連の創作は聖書エッセンスを土着信仰にミックスしたものを作り、これを熊襲に信仰させて恭順化を図る目的で秦氏(辛島氏)によって行われたのだろう。

さらに、この八幡神神話をベースに応神天皇に関わる「ある歴史的事跡」を重ね合わせ、出来上がったのが神功皇后の妊娠征伐&応神誕生譚。これを以前から秦氏が九州内に流布させていた八幡神信仰に上書きしたという感じですね。だから記紀八幡神の名は出ず、続日本紀になって初めて登場する。この間に三韓征伐の神功皇后応神天皇八幡神の習合すり合せが行われたのだろう。

とどのつまり、八幡信仰とは聖母マリアとイエス神功皇后とその子・応神天皇に仮託した「母子神信仰」だった。隠れキリシタンもビックリな内容ですwwww
※日本最初のキリシタン大名大友宗麟(義鎮)は八幡神キリスト教が似ていることから入信したという。二番目の正室が奈多八幡の娘は最初は信仰していたが後に対立。宗麟の入信は後に家臣間の対立にまで発展。

聖母
神功皇后応神天皇の絵画wwww)

「豊」とは「天女」で狭義には神功皇后のことを指しますが、広義には渡来人全般を指す言葉。ここからトユケ(豊受)とは渡来人を受け入れたことの意となり、全国各地に散らばる天女伝説=渡来人上陸地というわけです。豊受大神とはこのトユケ認可権を持っていた大国主族首領のこと。これが九州大分あたりを「豊国」と呼ぶ理由でもあるのですが、東三河もトユケの地で「豊国」であった。かつては新羅系の移住先が東三河だっだが、これも徐福後裔「大漢国」が滅亡した地で古くからの支配者がいない地域であるからで入植させ易かったのでしょう。また、現在の豊橋~浜松に掛け、ブラジル人が異常に多いのも未だ「トユケ」の地であるからに他ならないからだと思う(爆)。

では、「ある歴史的事跡」とは何か?となる訳ですが、、、、(ふふふふ)

語り部によると、応神天皇とは、、、、

百済毘有王-昆支(倭武大王、王君、統一王朝の大王、応神天皇)-幼武大王(欽明)-敏大王(敏)-舒大王(下宮家・舒明・押坂彦人。聖徳毒殺)-智大王(天智天皇)-大智大王(弘文天皇)…(略)…桓武天皇

さらに応神天皇は烏垣の百済王族(エフライム族)の初期大王族への婿入りだったと述べている。

この辺の経緯を簡単に述べると、、、、、

縄文人が移住を許して出来た徐福末裔の「大漢国(君子国)」とその神仙の地を目指して続々と渡来してきた倭人の「邪馬台国」が日本列島にはあったが、この主たる三国で連合王権を形成。しかし、続々と渡来する倭人に列島を乗っ取られることを危惧した縄文人がで加羅伽耶)に「雇われ王」として居た騎馬民族で扶余王族系の金首露王(倭旨)を討伐の為に招聘し、両国を滅亡させて新たに統一王朝「新倭国」を形成して金首露王を王君(おうきみ)に地位に据えた。これを初期大王族と呼ぶ。

後の世、祖国の扶余国高句麗によって併合されるのを阻止する為、半島に打って出て広開土王碑の帯方群進撃したが、結果、倭軍壊滅となった。その反省から倭・新羅百済を団結させ高句麗に対抗させる外交政策を倭興が立案。百済と結束を図る為に百済大規模支援計画の元に九州遷都を実施した。そして百済王族から入り婿を招いた。それに応じてやって来たのが応神天皇こと百済昆支(倭武)と弟(継体天皇)。しかし、倭興崩御とともにこの百済大規模支援計画は御破算に、、、九州王朝を閉じ畿内へ再び遷都。

現在、扶余国満州 現・遼寧吉林省)を祖とする初期大王家は長屋王自害事件で滅亡しており、百済系の後期大王家も扶余語を話した扶余王族亜流であることから、スキタイであった初期大王家から大陸利権(満州利権)を継承している筈。これが倭国権益の及ぶ範囲なのであろう。

北朝鮮チンコミサイルを発射させているのが3羽カラスのうちの一派であるのも、、、、WW2の前に満州国を樹立し半島で日韓合同朝廷を作ったのも、、、、豊臣秀吉が2度に渡り明に出兵したのも、、、、、倭国の権益という次元で、何かこの辺に絡んでいるのかもしれませんねぇ~。
※秀吉の二度に渡る明出兵で明は半島救援で体力を削がれ、ホンタイジが指揮する多民族国家「清」の進撃を防ぐことが出来ずに滅亡した。ある意味、日本は女真族満州人)の清建国を側面支援した格好だが、これも客家が関わっている案件なのかもしれない。

当時の高句麗を取り巻く緊迫情勢は、現在の北朝鮮金正恩を取り巻く情勢に似ている。中国東北部満州、扶余国、韓国を百済新羅、中国中央部を隋・唐と読み替えるだけで当時の情勢と全く同じ。この緊迫関係は古代からずっと変わっていないのかもしれません(笑)。

現代の百済大規模支援計画とは、今上&黒いマリア様を最終ケツモチとした満州・韓国・北朝鮮・日本を再び合体させ「東アジア共同体」構想であり、その過程で韓流をゴリ押し、KPOPを流行らせ、いままだTWICEなリベンジを図っている。この結果、北朝鮮満州地域を独立化させた「ネオ満州国」、さらに韓国までを併合化した「高麗連邦」の樹立が視野にある。ただ百済大規模支援計画が倭興崩御の代替りで御破算になったように、今上爺の生前退位と本家筋のビリケン広飲み屋の爆誕で同様に御破算となる筈です。

ビリケン広飲み屋は応神か?(超爆)
※ならば弟の鯰宮は残虐な継体に該当するなwwww

歴史は繰り返すのだす~~~ぅ

少し話が脱線してしまいましたが、話を戻しますね。

大阪の河内地方には大仙陵古墳仁徳天皇稜)、大仙陵古墳大阪府堺市)、誉田御廟山古墳大阪府羽曳野市)、上石津ミサンザイ古墳(大阪府堺市)、河内大塚山古墳...等の古墳があり、ここに大王クラスの為政者がいたことは明白ですが、記紀には河内王朝のことは記されていません。これが中国歴史書で「倭の五王」(讃、珍、済、興、武)として知られる「倭武」から始まる「大倭豊王朝」。

■初期大王家(上宮)
・讃・・・倭讃 (景行天皇) 徐福後裔の東三河の大漢国(君子国)平定、中国との関係強化で高句麗征伐を望む
・珍・・・倭珍 (讃の弟)
・済・・・倭済 (仲哀天皇) 南方系隼人征伐の為に九州甘木王朝樹立、平西将軍
・興・・・倭興 (清寧天皇出雲大社原型(杵築神社)創建、伝仁徳天皇陵埋葬、百済王族誘致了承(発案は息子の倭明・用明天皇


■後期大王家(下宮)
・武・・・倭武(百済昆支・誉田別・応神天皇 河内移動し「大倭」樹立)
※扶余=金=倭氏=金官伽耶(初期天皇族)と新羅百済(後期天皇族)は遠い同族


百済昆支こと応神天皇畿内に戻り、河内で王朝を作ったのが大倭豊王朝(難波王朝)。この件を語り部は「大倭は加羅の南に当時あり南加羅とした。南加羅からナムカヤで、ナミハヤになり邇波一族の川上振熊{長脛彦}による百済王子の撃退で難邇波を含め難波に・・」と述べている。実際、4世紀後半、上宮・倭興に連れられた応神天皇は忍熊王忍熊皇子)と戦って勝利し、ヤマト王権が佐紀(奈良県北部)から河内に動いている。

しかも、三韓征伐は201年ではなく4世紀後半の出来事だった。

4世紀に東方キリスト教臣民恭順化の道具として携えて渡来してきた初期大王族の元に婿入りする為、当然、百済昆支もキリスト教に改宗する必要があり、渡来してきた応神天皇以下の家来たちも一緒にバプティスマ(洗礼)を三角池で受けたのであろう。誉田別が九州で「誕生」したことが真に意味する内容とは、半島から連れ帰った百済王族・百済昆支を洗礼によってキリスト教信仰者(洗礼名ミカ)として「生まれ変わらせた」事跡を表している。これが八幡神が3歳の童の姿で降臨したという言い伝えが薦神社にある理由であり、その事跡を記念して創建されたのが薦神社というわけです。
※三角池も池内に三本鳥居の立つ「蚕の社」こと太秦木嶋神社と同じく洗礼(バプチスマ)の場であったと睨む。

この融合政策により高句麗を封じ、三韓征伐したと高らかに宣言したわけですね(爆)。

これが三韓征伐の真相
語り部の語る内容は考古学的に証明にされたわけではなく、現時点では仮説の域を出ないが、謎の4世紀を中国文献や社伝と整合して非常に綺麗に説明できる点で一番真実の歴史に近いものだとオイラは思っている。

ところで、「初期大王族がキリスト教???」と不思議がる向きがありますが、実際にはキリスト教の日本渡来は1549年に客家の道案内でやって来たフランシスコ・ザビエルだけではなく、はるか以前から到達していた。

唐の太宗の時代、ペルシア人司祭・阿羅本によって伝えられた景教が中国で大流行していますが、その景教エッセンスを唐に留学して仏教に取り入み庶民に広がりつつあった仏教の毒を抜き改良を施したのが平安仏教であり、その中心人物は空海最澄。ただし、聖母マリアの神性を認めない景教ネストリウス派キリスト教景教が中国に到達したのは781年のことであり、初期大王族渡来の4世紀とは掛け離れている。

騎馬民族である初期大王家が渡来と同時に持ち込んだキリスト教は、多分、インド-チベット-女真族経由で伝えられた使徒トマス由来ものか、あるいはシルクロード経由で東方へ逃げた原始キリスト教団由来のものであろう。いづれも原始キリスト教団のものであり、聖書という経典が出来上がる前に伝播したものであるが故に、日本に渡来した最初のキリスト教には経典が存在せず、逆に土着信仰と習合していった。

1700年頃、道教僧「徐道」によって書かれた『神仙鋼鑑』には、西暦1世紀頃の後漢光武帝(在位25~57年)時代にチベットが中国に侵入。中国は撃退したがチベットはイエスに関する話を残して去っていったという。「中国から西に3年間旅をして、中国の距離の測り方で19万7000里行くと、ある国につき、そこでは辛酉元年(西暦1年)にマリヤという処女が、天の神の示しを受けて子を孕んだ。彼女は子を産むと、布に包んでまぶねに寝かせた。そのときすべての天使が音楽をもって空中を満たした。」 とある。これを徐道は、「トマスは中国に来る前にチベットにも福音を伝えているかと思われる。」と記している。
※「柔よく剛を制す」は光武帝の言葉

チベットは仏教でインドと深く繋がっていますが、このチベット同盟を結んでいたのが騎馬民族の血を引く半農半狩猟民の女真族。意外に思われるかもしれませんが、女真族の宗教はキリスト教。その祖である扶余国がキリスト教信仰国である可能性は非常に高いのです。