希野正幸のインフォブログ

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繊維派と金融業のタペストリー分析(2)

前記事の続きです。

不慣れな石油ビジネスにのめり込み、カナダのニューファンドランド島に絡む石油精製事業で多額の負債を抱え破綻した安宅産業の処理で頭角を現した磯田一郎。最終的に安宅産業は1977年10月1日に伊藤忠商事に吸収合併されて消滅した。

この磯田一郎の念願は平和相互銀行の吸収合併。つまり、大阪にしか地盤がなかった住友銀行が首都圏に進出する為の足掛りとして「闇の世界の貯金箱」といわれた平和相互銀行の支店網が「どうしても欲しかったわけですが、この合併の成功により、都市銀行の下位行だった住友銀行が大きく躍進したわけで、磯田を「住友銀行の中興の祖」とい呼び、「住友の天皇」と呼ばれる理由。

この為に金屏風事件等が起きている。

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■金屏風事件
1985年8月、経営陣の伊坂らと対立する平和相銀創業一族(小宮山家)が、所有していた株(全株式の33.5%)を旧東京川崎財閥系の資産管理会社「川崎定徳」社長・佐藤茂に80億円で売却した(この当時、現金を1日で100億集められるのは2法人1個人しかないとされ川崎定徳はこの内の1つであった)。平相銀株の購入原資は、イトマンファイナンスより融資されていた。同社は住友銀行系中堅商社イトマンの関連会社で、当時の社長は元住友銀行常務・河村良彦であり、河村は住友銀行会長磯田一郎の腹心であった。

株買戻しで焦る伊坂らに、竹下登の秘書・青木伊平の紹介で、真部俊生・八重洲画廊社長から“「金蒔絵時代行列」という金屏風を40億円で購入したら、株買戻しの取引が可能になる"という話が持ちかけられた。後の鑑定で金屏風は多く見積もっても5億円、一説には8000万円の評価額でしかなかったという。それでも伊坂ら平和相銀経営陣は、株の買戻しの資金として、伊坂が実質的に経営していた経営コンサルタント会社に購入代金41億円を融資し、金屏風を購入した。にもかかわらず結局、株の買い戻しはできなかった。その後、金屏風の代金は、これまた政界に流されたという噂がたった。(Wikipedia
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■伊坂(監査役)ら経営陣・・・合併反対派
■小宮山創業一族・・・合併推進派


という構図ですが、太平洋クラブに絡む不正経理馬毛島事件で経営が傾き出した平和相互銀行にとり、住友銀行との合併話は多量の株式を持つ小宮山家にとっては渡りに船なのですが、経営陣や社員は追い出されることが明白な為、絶対反対であった。

最終的に平和相互銀行は1986年10月1日住友銀行吸収合併され消滅した。

この合併劇の裏の主役が川崎定徳。

水戸藩金庫番を起点に大きくなったのが東京川崎財閥であり、その資産管理会社が川崎定徳。小宮山家から株を譲られ平和相互銀行筆頭株主となっていた。東京川崎財は日本火災海上保険、川崎銀行、第百銀行、第百生命を傘下に納め、六本木のロアビルはじめ東海村原子力産業も東京川崎グループが手掛けたもの。三菱財閥とは初期からの姻戚関係を保つが、岩崎家だけでなく、近衛文麿三笠宮崇仁親王高円宮憲仁親王、寬仁親王桂宮宜仁親王といった皇室の方々とも繫がり、なんと歌手の”中島みゆき”とも繋がる大財閥。

佐藤茂は元々は米軍に出入りしていた畳屋で、川崎定徳にスカウトされてこの道に入っていった。

住友銀行イトマンイトマンファイナンス→川崎定徳」という資金の流れから、「闇の世界の日銀総裁」と呼ばれる佐藤茂住友銀行とはズブズブの関係。つまり、平和相互銀行を吸収合併する絵を描く住友銀行の名代として佐藤茂が関与していったということ。これが「金屏風事件」であり、平和相互合併の最大の功労者が佐藤茂。ここから佐藤茂住友銀行フィクサーになっていく。

しかし、五代目山口組若頭の宅見勝に山口組に呼ばれ、宅見組若頭が日本刀を振りざし恫喝する中、佐藤茂は失禁。最終的に伊藤寿永光に金を出すことを了承し、ここから伊藤や許が絡んでくるわけですが、住友が闇世界に取り込まれた瞬間でもある。

ここから雅叙園観光を舞台にした戦後最大の不正経理事件「イトマン事件」にまで発展し5000億円が闇社会に流れ、「東京佐川急便事件」「竹下登の皇民党事件(ほめ殺し)」へも展開していった。

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イトマン
1883年に大阪市心斎橋で、羽州屋高田久右衛門から暖簾分け、「羽州屋」(うしゅうや)として舶来品(唐物)を扱う繊維商店として設立したのが始まりで、その後創業者・初代伊藤萬助にちなみ「伊藤萬商店」、「伊藤萬(いとうまん)」と社名を改め、更に1991年1月1日付をもってカタカナの「イトマン」と社名を改めた。

戦後は織物・繊維製品を中心とした繊維商社として運営し発展を遂げたが、実質的に住友銀行の商社部門として機能。2代目伊藤萬助の娘婿の伊藤寛が関西経済同友会の代表幹事になる。現在の東証1部上場企業として順調に発展を続けてきていたが、1973年のオイルショックで収益が急速に悪化した。メインバンクの住友銀行(現:三井住友銀行)は、河村良彦常務を伊藤萬の社長に送り出し、4代目社長の伊藤寛は代表権のない会長に退く。河村は社長就任後、従来の繊維商社から総合商社として早々と再建した。

住友銀行頭取の磯田一郎から平和相互銀行の内紛株買戻しの資金援助要請を受け泥沼に入り込み、平成初期に発覚した一連の伊藤萬事件(イトマン事件)の影響で経営破綻。1993年に住金物産(現:日鉄住金物産)に吸収合併され110年間の歴史に幕が下ろされた。(Wikipedia
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元々、イトマン本社用地の地上げが上手く行かなかったことから、伊藤寿永光をイトマン河村良彦社長に紹介したのが名古屋支店長であり、イトマンの窓口責任者は名古屋支店長であることから、常に名古屋が舞台になっている。

衝撃的なことが起きたのが、1994年9月14日、住友銀行名古屋支店長銃殺事件(畑中和文・当時54歳)。この件に関しては話題の書となった『住友銀行の闇』にも一切語られていない。

一説には磯田頭取追い落としの為に奔走していた結果だとも噂されている事件ですが、、、、、京都放送KBSは副業のゴルフ場開発で倒産しそうで、資金を集めて取得した株は許永中達に握られていた。 また在日の許永中が一定以上の株式を保有すると、放送権が停止される危惧もあった。そのような中、京都放送KBSの約束手形闇金融に流出。乱発された約束手形の回収を許永中に依頼して見事に成功したが、約束手形の乱発は許永中の得意技で実はマッチポンプだった。

名古屋支店長・畑中和文が下記スーキムで債券回収を指揮。

① ゴルフ場抵当権を住友銀行ダイエーファイナンスに移動 (住友銀行を隠蔽)
② 従業員組合を説得し未払い賃金を債権として会社更生法を申請
③ 更生法が適用され、放送設備以下の抵当権は裁判所が管理。株は紙くず化
④ 法的整理で京都放送KBSの債務超過は無くなり、放送権は守られた。

許永中山段芳春達らの損害額は650億円といわれ、報復で射殺。 住友銀行でこの経緯を知っているのは「ザ・ラストバンカー」こと西川善文だけだという。(週報道サイトからの抜粋)

イトマン事件とは直接的には関係のない外伝的な内容ですが、裏社会の関与が窺える内容。このことで住友銀行はビビり裏社会側の為すがままとなったと云われる。

そもそもが平和相互銀行の強引な取得から始まったものであり、その代償とみえなくもない。

だが、何故、宅見勝若頭の佐藤茂が呼ばれて恫喝されたのか?
ここが分からないとこの事件の謎は解けない。

う~む、確か「週報道サイト」さんでは、みずほ銀行内の旧第一勧業銀行派閥の裏金作りのスキームの闇について仄めかしていましたねぇ。何かあるのでしょうか?
http://hodotokushu.net/kaiin/kiji20140408b.html

以前、名無し先生情報から高度自給自足ブログさんとこで書かれていた記事内容には、、、、

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川崎テイトクは水戸藩にいた頃から通貨の鋳造をしていましたね。
とら銭という硬貨を作っていた訳です。
こんなことをできるほど上の地位にあったということですね。
さて、川崎テイトクの創業者、川崎八右衛門のマスターマインドは誰だったのか?

それは置いといて・・・
今回は失われた20年の原因として、日本の信用を失墜させた大事件について書きます。
第一勧銀巨額小切手事件です。
第一勧銀といえば、第一銀行と日本勧業銀行が合併して出来た銀行です。
その創業者は、渋沢栄一。川崎テイトクとも子孫が繋がっている人物です。
この第一勧銀が起こした正規の大事件

第一勧業銀行 巨額 怪小切手事件です。
(ここに貼ると記事が長くなりますので、詳細はリンクを読んでください) 
http://www.rondan.co.jp/html/news/dkb/dkb.html
(※注 →リンク切れにつき、こちらを参照 http://blog.livedoor.jp/net_detective2/archives/37900281.html

この事件、謎の小切手の出所をめぐる事件だったのですが、川崎テイトクが起こした事件。
国家予算外資金の日本国歳入に辺り、裏で企みを実行していたのが川崎テイトクのさ◯◯し◯る氏です。
当時の複数の有力政治家がなんと、100兆円という、国家予算単位のカネを盗もうとしたのです。
政治家の名前はご想像にお任せしますが、まあ、超大物達ですよ。
それを小分けした小切手が出回ったのですが、偽物と判断され、換金出来なかったという奇妙な事件。
小分けしたといっても、一枚7.5兆円とかの小切手です。
¥7,500,000,000,000ってな金額です。

現物のコピーをちらっと見た事が有るのですが、見た事も無い桁の小切手でした。
この小切手のコピーを見るまでは、そんな馬鹿な・・・思っていましたから。
この奇妙な事件をはじめ、その他の不正事件が次々と発覚。
それ以来、日本は国際的に不信感を持たれるようになりました。
誰がこれらの小切手を発行し、誰がそれを突き止め、誰が阻止したのでしょうか?
昭和30年代からの日本の経済成長は、自力だと思いますか?
自力であれば、何故、今は成長できないのでしょうか?
中国はまあいろいろ問題は有りますが、何で急成長したのでしょうか?
誰かが、世界経済を牽引させる目的で巨額の資金と技術、設備を入れているからとしか考えられません。

■【失われた20年の原因② 第一勧銀巨額小切手事件と川崎テイトク、そして水戸黄門の正体】
http://jfcoach.blog49.fc2.com/blog-entry-188.html
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あの事件では「訳あり」で換金を止められた小切手の額面は100億になっていましたが、本当はもっと巨額だったのかも、、、100億円の小切手はさらに細分化されたものなのだろうか?

ここで少し時系列で事件を並べてみる。

1986年10月・・・平和相互銀行住友銀行に吸収合併
1987年07月・・・経世会竹下派)旗揚げ
1987年10月・・・竹下登日本皇民党(稲川会系)による“ほめ殺し”攻撃
1987年11月・・・竹下登、第74代内閣総理大臣となる
1992年10月・・・佐川急便から5億円ヤミ献金受領の件で金丸信衆議院議員辞職
1993年**月・・・住金物産は伊藤萬を吸収合併し、繊維・食糧を扱う総合商社化
1994年09月・・・名古屋支店長銃殺事件
1995年**月・・・佐藤茂死去
1997年08月・・・五代目山口組若頭・宅見勝射殺
1998年07月・・・小渕恵三、第84代内閣総理大臣に就任
1999年04月・・・竹下登、変形性脊椎症のため長期入院
2000年04月・・・小渕恵三脳梗塞で死去
2000年06月・・・竹下登、呼吸不全のため死去
2001年10月・・・住友銀行さくら銀行と合併し三井住友銀行
2012年10月・・・新日本製鐵住友金属工業株式交換で「新日鐵住金」を発足
2013年10月・・・住金物産日鐵商事と合併し、日鉄住金物産を発足

2000年に2人の総理経験者の死去は怪しいだすな。

新日鐵住金は社名から「住友」の2文字消え、住友グループ社長会白水会)から切り捨てられたが、これは意図的なものと思う。通して眺めてみた感じでは、住友御三家のうちの2つまで、、、つまり、平和相互とイトマンを介して住友銀行住金物産住友金属工業も上手く乗っ取られて、三井系(地祇系)に取り込まれたという感じです。

故・宅見勝若頭はバブル期を通して金融や不動産などのフロント企業を使い蓄財した2000億円とも言われる豊富な資金を背景に、渡辺芳則を首領に据えた五代目山口組の発足(1989年)に立役者として関与したといわれ、「中野会会長襲撃事件」の中野抜きの裁定に対する報復であるとされている。また五代目・渡辺芳則の後継となった名古屋に本部を置く弘道会・司忍の六代目襲名は本当はクーデターだったともいうが、、、、

弘道会、、、名古屋
イトマン窓口、、、名古屋
住友銀行襲撃事件、、、名古屋
・伊藤寿永光、、、名古屋出身
トヨタへの融資拒絶、、、、名古屋

川崎定徳=水戸徳川家ですが、名古屋には御三家の尾張徳川家がある。ここは東北の姫さまの親の出自でもあるわけですが、、、、

う~む、名古屋がチョー怪しいのは分かったが、、、、全く繋がらんwww

少し頭を休める為に、、、

尾張徳川家の至宝・金の鯱の化身「グランスピアー」でも視聴しておくか(超爆)



んっ、、、松平健!!!(=豊橋出自)

金鯱を操る背後に「松平」有りか!!!
※松平姓を賜ると四品資格持つ

(長くなったので次回に続く)